北尾吉孝日記

『人間が変わる方法』

2017年12月5日 15:55

先日Twitterを見ていたところ、「人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ」という大前研一 BOT (@ohmaebot)さんのツイートがありました。
4年半程前、私は『人が変わる時』と題したブログを書いたことがあります。人生には幾つかの大きな転機があって、その転機で人が変わり得る可能性は非常に高く、例えば男性の場合は結婚をし、妻子とりわけ自分の血を分けた子供を養って行くという責任が課された時、その中で変わろうと決意をする人が、私の経験上では多いように思います。「発心」「決心」「相続心」という言葉がありますが、その変化に対する決意は相続心にまでなって続いて行くケースが結構あるわけです。
あるいは、素晴らしい人との出会いというものが人を変えて行く切っ掛けになり得ます。自分より優れた人間を見た時にその人を敬する心を持つのと同時に自分がその人間より劣っていることを恥ずる心を持つということ、此の『敬と恥』が人を変える一つの原動力になると思っています。之については敬があるから恥があるというふうに言えるもので、人間誰しもが持っている一つの良心と言っても良いかもしれません。
他方で先に挙げた3つの方法、「時間配分を変える」「住む場所を変える」「つきあう人を変える」で、自分を変えることに繋がるか否かは私には分かりません。但し、率直に申し上げて「そう簡単に自分を変えられるのであれば、誰も苦労しないのでは?」という印象を持ちます。
2番目の「住む場所を変える」に関して言いますと、例えば『草枕』の冒頭に次の有名な一節があります――山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
之は漱石の一種の芸術論に繋がって行くのですが、どこに越しても同じだと彼は言っているわけです。私が思うに、人間が変わる上で上記3点に比してより本質となる要素は、時空を越え先哲の書に虚心坦懐に教えを乞うと共に、片一方で毎日の社会生活の中で事上磨錬し、その学びを実践して行くということです。先哲より学んだ事柄を日常生活で日々知行合一的に練って行く中で初めて、人間は段々と変わって行けるものでしかないと思います。
拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)の第3章でも述べた通り、人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、あらゆるものを嘗め尽くすように体験することで知行合一の境地に持って行くことが出来るのです。我々は、そのようにして日々修練し自己修養に勉めて行かねばなりません。




 

『記憶力と創造力』

2017年11月27日 16:35

アルベルト・アインシュタインの言葉に、「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」というのがありますが、私などもこのような考え方をしています。
人間の脳のキャパシティから考えて、何もかも全てを記憶に留めておくのは不可能です。非常に高い記憶力を持つ人がいる一方で、それとは真逆の人もいて、人によりその能力は様々です。しかしながら、そこに限りがあるという点に違いはありません。
従って、何もかもを覚えようとするのでなく、「覚えておくもの、覚えておく必要のないもの」を峻別し、更には今覚えておくことが暫くの間は必要だとか、「長期で必要だと思えるもの、長期では別に必要ないと思えるもの」といった形で記憶した方が良いと思います。
例えば、小学校から中学校そして高校に進学する時に、勉強した内容の多くはその後の日常生活と関係ないものは、忘れるという人が殆どだと思いますが、忘れたからと言ってその後生きて行く上で、何ら困ることはなかったでしょう。
最早、従来のように人間に暗記力・記憶力というものは必要とされていないのではないでしょうか。何でも彼でも正確に覚えねばならないのではなくて、過去の色々な事柄の蓄積から人間社会が繰り返す傾向といった類を認識し、朧(おぼろ)げながら直感力が働いて行き正しい判断がつけば良いのではないでしょうか。
何より大事なことはやはり、より創造性豊かにものを考えることだと思います。勿論、過去の知識や経験等をベースにしながら新しいものが出てくる場合も多いのですが、私としては夢が先にあり、その夢を達成して行く中で革新的な創造が起こるものと思っています。
例えば、「私も空を飛んでみたい」と夢を持ち、鳥が羽を一生懸命バタバタさせているのを見ては、羽を動かすようしたら良いのではと考えて、バタバタ動くものを作ってみるわけです。
そしてその後、空気抵抗を上手く利用したら良いのでは等々と考え抜き改良に改良を重ねて行く中で、段々と飛行機の形態が定まって行ったのでしょうし、そこに技術が生まれてきたのだろうと思います。
嘗て「今日の大学(3)」で私は、「知(ち)を致(いた)すは物(もの)に格(いた)るにあり…良知を極めようとするならば先ず事物の理をきわめなければならない」とツイートしたことがありますが、経験法則的にも様々に理を極めて行きますと、正に此の「格物致知(かくぶつちち)」の世界というのが出来てくるのだと思います。




 

『人生100年時代』

2017年11月20日 16:35

一億総活躍社会実現、その本丸は人づくり。(中略)人生100年時代を見据えた経済社会の在り方を構想していきます――首相官邸「人生100年時代構想」特集ページに、こう書かれています。いま人生100年と言われ、いよいよ定年後30年・35年をどうするか、というようなことが話題になることが増えてきています。
上記構想会議の第1回で安倍晋三首相は、「一人一人の能力を上げていく、一人一人が学びたい、仕事をしたい、その要求に応えていくことができれば。かつ、高齢者の方々は経験を持っている。その経験をいかしていくと新たな取組が可能となっていくのではないか。また学び直しをしていくことによって、新たな人生を歩んでいただくことによって社会に貢献していただけるし、あるいは、それぞれの人生が100年、もっと充実したものになっていくのではないか。このように思います」等と述べられたようです。
此の人生設計ということについて中国古典では、宋の朱新仲が「人生の五計」ということを唱え実践していました。その一つは「生計」で、之はどのようにして健康に生きて行くかということです。次に社会での処世術である「身計」、平たく言えば之は自分が一生どのように身を立てて行くか、即ち社会生活・社会活動を如何に行うかという計画です。それから「家計」、之はどういう妻を貰って、どういう家をつくり、親兄弟・親戚・朋友等と如何に仲良く付き合って行くかということです。そしてどのようにして年を取って行くかという「老計」、具体的に言えば定年が目の前に近づきつつあると思うと、どんな人でも一応は過去を振り返り、サラリーマンならば退職後の生活・設計を真剣に考えます。これから後が老計です。最後は如何に死すべきかという「死計」です。
「老計」ついて例えば安岡正篤先生は、『噛みしめて味わいが出る。物事にあまり刺激的にならないということ。これが老境の特徴であります。年をとるということは、あらゆる意味において、若い時には分からない、味わえなかったような佳境に入っていく・・・・・・これが本当の「老計」というものであります』と、『人生の五計 困難な時代を生き抜く「しるべ」』(PHP研究所)の中で述べておられます。
また同書の中で、『ともかく、「死計」とは即「生計」なんです。ただ、初めの「生計」はもっぱら生理的な生計であって、一方、「老計」を通ってきた「死計」というものは、もっと精神的な、もっと霊的な生き方であります。つまり不朽不滅(ふきゅうふめつ)に生きる、永遠に生きる計りごとであり、いわゆる生とか死とかいうものを超越した死に方、生き方、これが本当の「死計」であります』とも言われています。
上記した安岡先生の「永遠に生きる」という言は、理解が難しいかもしれません。要は一分一秒といった計数的な時間を超越して、「如何に生くべきか」といった自己の内面的要求に基づいて生きるのです。その生き方こそ永遠の今に自己を安立せしめることなのです。「如何に生くべきか」の工夫は、「如何に死すべきか」の工夫と同じことです。『葉隠(はがくれ)』に「武士道と云(い)うは死ぬ事と見付けたり」とありますが、日本武士の生き方は正に此の生き方を体現したものです。常に死を覚悟して毎日を生きる、換言すれば死ぬ気になって一生懸命に生きるということです。芭蕉が『花屋日記』で言っているように、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」と言っているのは、芭蕉が死を覚悟して日々真剣に生き切ったということをよく表しています。
『書経』の中にも「有備無患(備え有れば患い無し)」とあるように、やはり備えあれば憂えなしで昔から此の五計を考えるべきだとされてきており、私自身数年前からは、如何に老いて行くかという「老計」、如何に死して行くかという「死計」の二つを専ら考えるようになっています。




 
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