北尾吉孝日記

『野党共闘に思う』

2021年10月19日 13:45

先週木曜日の衆議院解散を経て、事実上の選挙戦に突入しています。今回一つ注目されるべきは、所謂「野党共闘」の動きでありましょう。これまで当ブログでも折に触れて指摘してきたことですが、本件につき以下改めて「政治の三要素」より述べておきたいと思います。
中国古典流に言えば、政治は三つの要素に分かれます。第一に政治の政に道と書く「政道」というもので、時代劇などを見ると「天下の御政道」というようなことがよく出てきます。政道とは正に政治の根本中の根本であり、その国の君主なり皇帝なりが行う政治の思想・哲学に当たる部分です。
そして、その政道を踏まえ活用しながら如何に具現化・具体化して行くかが「政略」で、「政策」に繋がって行くわけです。一番大事なのは言うまでもなく思想・哲学であり、政道の違いを象徴しているのが各政党であります。政党は本来政党たる役割をきちっと果たすべく、政道・政略を踏まえた政治を実現して行かねばならないのです。
例えば14日、安倍晋三元首相は次の通り述べておられたようです――立憲民主党が、安全保障政策で全く違う考えの共産党と協力するのは、選挙のためだけの『談合協力』だ。もし政権を取れば、日米の信頼関係が根底から崩れ、そういう政権を許すわけにはいかない。
現下の野党共闘を見るにつけ、「消費税減税」や「脱原発」等の表層的な政策レベルでの擦り合わせに終始しています。もっと言えば、民主党・維新の党の合流(16年3月)以後を見てみても、野党各党は近視眼的な党利党略に基づき離合集散を繰り返しています。
即ち、野党間で行われるのは常々政策協議だけであって、最も枢要な要素である政道・政略についての議論が一切なされていないのです。しかし、その程度の野党共闘であっても今回結果として、自由民主党に属する優秀な議員がその資格を喪失し、日本の将来に禍根を残すかもしれぬ情勢に対し、私は危惧の念を抱いています。
例えば東京都第23区の場合前回4年前の得票数に鑑みるに、立憲民主党・共産党の候補者一本化によって、自民党衆議院議員の小倉將信氏にとっても厳しい戦いになるのではと心配しています。同君は、人物・見識とも申し分なく、将来を嘱望されている若者であります。対立候補である伊藤俊輔氏の政党遍歴が、日本維新の会→希望の党→国民民主党→立憲民主党といった具合であるにも拘らずです。
政道なき政治は、退廃に向かうより他ありません。それは、過去が証明している所であります。来る31日、我々は政治の三要素とりわけ政道・政略の相違に思いを致し、我々の貴重な一票を行使すべきではないかと思うものです。




 

『夢を実現する秘訣?』

2021年10月14日 15:20

ウォルト・ディズニー曰く、『夢を実現する秘訣は4つのCに集約される。好奇心(curiosity)確信(confidence)勇気(courage)継続性(constancy)で、なかでも最も重要なのは「確信」である。あることを信じるのなら、全面的に、絶対的に、疑いの余地なく信じなさい』とのことです。此の4つのC何れもが私も重要だと思いますが、以下「最も重要」とされる確信にフォーカスして、端的に私見を申し上げて行きたいと思います。
2年半程前、私は『夢から全てが始まる』と題したブログの中で、次の通り述べたことがあります――夢の実現とは一足飛びに行くわけでなく、それに向かって一歩一歩しかし着実な努力が必要です。それは着実な成果を生むための努力でなければならず、その歩みの一歩一歩が本当に正しいか否かを、ずっと検証して行かねばなりません。そうして、「その道を歩めば目的地に行けるか。もっと近道はないのか」といった反省を繰り返しながら、前に向けての策を真剣に練り続けることが求められるのです。
夢というのは、元々の出発点は好奇心(curiosity)にあり、醸成されたその夢を具現化すべく、弛まぬ努力で勇気(courage)を持って取り組むことが求められます。また上記引用にもあるように、試行錯誤を繰り返すということ自体、勇気も必要ですし継続性(constancy)も必要です。問題は、確信(confidence)が何時生まれるかであります。
概して最初の出発点で、確信を持てることなど殆ど無いでしょう。寧ろ、「これで良いのではないか?」とか「これで行けるかもしれない」といった程度で、後に試行錯誤を重ねる内、「自分の思いは正しかったんだ」とか「これはこう修正しないといけない」といった具合に、色々考えが纏まってくるのではないでしょうか。之が自信(self-confidence)ということであれば、そこに繋がって行くのは、やはり途中であろうかと思われます。
つまり確信というのは、最初の方ではなくやっている内に次第に出来てくるものであって、「あることを信じるのなら、全面的に、絶対的に、疑いの余地なく信じなさい」といった、盲目的な話にはならないと思います。ディズニーの発言意図の詳細は分かりませんが、私は以上のような印象を持っています。
何れにせよ、最も大事なのは夢を常に持ち続けるということです。何故なら、あらゆる事柄は夢から出発するからです。「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」(吉田松陰)とは、実に至言であります。飛びたいならばグライダーを作って挑戦しようと発想したライト兄弟をに見ても、その必要性がため考えに考えた末ふっと閃き、それをヒントにしてまた考え抜き発明発見を繰り返し、その進歩の中で遂には夢を具現化したのです。




 

『円熟の境に至る』

2021年10月7日 16:25

『ビジネスに活かす「論語」』(拙著)エピローグ『人生に後悔しないよう「今」を懸命に生きる』で、私は次の通り述べました――年をとるというのは、肉体的にはある種の衰えなのですが、精神的には円熟味(えんじゅくみ)を増していくことです。人間としての完成度が増し、心の平静安穏を保つことができるようになっていくのです。それは年齢を重ねることによって自然に起こってくる現象なのだと思います。
例えば、木喰上人(もくじきしょうにん)のに「まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸」とありますが、彼方此方(あちこち)に角を立てていた人も年を取れば自然と角が取れ円(まる)くなって行くものです。孔子の「七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』為政第二の四)とは、ある意味で人間が完成しつつある状況を言っているのだと思います。
即ち、ずっと修養を積んできた人は段々「まん丸丸く」の方に近づいて行き、60歳、耳順(じじゅん)の年を迎える頃には孔子が言うように、人の言葉を聞いても特に反論することなく「ああ、そうか、そうか」と受け入れるようなるのです。そして70歳を超えたらば、正に思うように振る舞っても道を外れぬようなって行くということです。勿論それは飽く迄も、それまでの人生における修養が十分出来ている上での話であります。
人間として此の社会に生まれ、様々な形で揉まれ、酸いも甘いも嚙み分けられるようになり、ある種の円満な人格が自然と形成されて行く――それが一つの円熟の境になるのでしょう。年を取るに連れ色々なものが熟し、色々なものがバランスされて、円くなって行くのです。例えば、鰹にしても3年程度熟成させたものが美味しいわけで、やはり人間としても一つの滋味(じみ)と言うか、その人間の味わい深さが増して行くのだと思います。
私が私淑する安岡正篤先生は御著書『経世瑣言(総編)』で、次のように述べておられます--あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在になって来ることであります。元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣(ぞうけい)、薀蓄(うんちく)となり、それが独特の情操風格を帯びて来る。これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。
円熟の境に達すれば、究極的には何かリズミカルになって、安岡先生が言う「風韻」を発するかの如き格調高い人間になれるのでしょう。そうした人物たるべく我々凡人は、日常生活の中で、日々自分の為すべき事柄に一所懸命取り組みながら、なお学び続け、正しい道を歩んで行こうと努めねばならないのです。




 
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