北尾吉孝日記

『参謀と補佐役』

2020年9月17日 15:30

第99代内閣総理大臣に就任された菅義偉さんは、故・堺屋太一さんによる歴史小説『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』を愛読書とされています。堺屋さん曰くは「参謀と補佐役は違うということが大事なところで」、夫々を次の通り述べられています――参謀は始終策を練っているわけです。参謀の典型的なのは黒田如水で、しょっちゅう策を練る。(中略)補佐役は一切自分の手柄を言わない。これが一番のポイントですね。豊臣秀長というのは日本史上、最も優秀な補佐役です
此の参謀と補佐役ということで私見を申し上げますと、例えばCFOのポジションというのは単に金勘定をやっているだけでなく、CEOの戦略面におけるあらゆる補佐を常に行いながら一緒になって事業構築をして行くという重要な役割を担っています。従って金回りの事柄だけを扱うCFOは私から言わせればCFOではありませんし、米国では基本そうしたレベルでの取り組みが同ポジションには求められます。
現代の企業で言えば補佐役はCFOであって、金勘定を含め色々な戦略的方向性を決めるに当たっても色々な形で関与して行くことになると思います。私自身、20年以上前に「孫正義氏の戦略参謀かつソフトバンクのCFOとして、数々の大型買収、提携などを手がけていた」当時、自分の仕事をそういうふうに位置付けて、ある意味孫さんの補佐をやってきたということです。
日本の歴史に見てみても、徳川家康に対する金地院崇伝や南光坊天海、豊臣秀吉に対する竹中半兵衛や黒田如水、あるいは北条時宗に対する無学祖元禅師、等々と誰につけ、非常に見識が高く洞察力・先見力に優れた人物を周りに置くことを必要としました。そしてそれは時として補佐役、時として参謀といったところで、両者を峻別する必要性もなければ、実際それは出来ないことだと私は思っています。
また菅さんの言葉を借りて言うならば、「自分は表に出ずに物事が前に進むよう段取りをとる秀長の生き方」は、血縁関係という特殊性の中での地位に基づくものであろうと考えられます。それは一つに、兄貴(秀吉)に刃向かうことは絶対にしない、という信念を互いに持っていた中で、良く相談し良く話も聞き、といったことがあったのではないでしょうか。それが堺屋さんの言われる「補佐役のあり方」に、色濃く映されている部分があるように思われます。
中国史上、貞観の治(じょうがんのち…唐の第2代皇帝太宗の治世、貞観時代の政治)と称される最も良く国内が治まった時代を纏めた『貞観政要』(…太宗と家臣達との政治上の議論を集大成し、分類した書)にある有名な言葉、「創業と守成いずれが難きや」が示す通り、創業には創業の難しさが守成には守成の難しさがあります。家康をに挙げてみても、所謂「関ヶ原の戦い」迄の家来達(…軍略家や戦略家、腕っ節の強い人といった戦に勝ち抜く為の人材)と、それ以後「徳川三百年」の礎を創って行く家来達とでは能力・手腕の違う人間であるべきで、天下平定後の家康は如何に国を平和裏に治め徳川政権の長期安泰を維持するか、というところに知恵を出すような人材を国づくりのステージに応じて周りに置くようにしていました。
それに同じく大事なポイントは、時々刻々と変化する環境次第で様々なエクスパートが必要になり、一貫して参謀であるとか一貫して補佐役であるとかは有り得ない、ということです。大参謀とも言われた耶律楚材(やりつそざい)は若干27歳で54歳のチンギス・ハンの大宰相となり、30余年モンゴル帝国の群臣を仕切った非常に博学かつ胆識を有した人物であります。彼の死後、帝国は崩壊への過程を進んで行くわけですが、事程左様に、人間みな歳を取り全ては変わって行くものです。補佐役だ参謀だのと定型化していては、現実に難しい局面があるように思います。我々は常々その時分その時分でのベストを探して行かねばならないのです。菅総理はどちらのポジションに就かれても大きな成果を出されると思います。




 

『心が強い人』

2020年9月9日 14:40

ふた月程前、東洋経済オンラインに『悲しいほど「心が弱い人」に共通する3つの特徴 強さは「修復力」と「客観視」から生まれる』と題された記事がありました。総合格闘家の朝倉未来さんが「弱さ」の克服方法につき様々語っているものですが、本ブログではその中から以下2点をピックアップして簡単にコメントしておきます。
 
○「弱い」人は相手を分析しようとしても、ただ映像を漫然と見てしまうことが多い。自分ならどうするか、自分の視界からはどう見えるか。それをつねにシミュレーションすることで、臨機応変に対応できる「強さ」が生まれるのです。これは、格闘技に限らず、多くの物事に共通する問題でしょう。
○目的意識が曖昧なのは「弱さ」です。(中略)目的意識をしっかり持つために大切なのは、今取り組んでいることが本当にやりたいことなのかどうかの再確認です。(中略)本当にやりたいことであれば、どんどん成長することができます。やりたいことではないのになんとなくやめることができず、ずるずると続けてしまう、というのも「弱さ」の表れです。
 
己を強くする為に、やらねばならない事柄が幾つかあると思います。一つは、あらゆるものから独立する、ということです。自分自身の独立性と主体性の確立こそ先ず必要であり、之が無いと人間弱くなりましょう。それから、自分を律する気持ちを持つ、ということです。麻薬にしろ煙草にしろ、止められないのは自分が弱いからです。何事につけ良くないものに対し徹底的に立ち向かって行く姿勢、そしてそれを貫き通す意志力を持ち続けられるかが結局勝負の分かれ目となるでしょう。
世の中のことというのは中々思い通りに行くことは少なくて、色々なところで失敗があったり挫折があったりするわけですが、それが寧ろ当然だと思いながら常々チャレンジし立ち向かって行くということでなくてはいけません。最初から諦念の世界に入るような人は、やはり弱いと思います。また企業においては過去の成功体験に溺れることなく、「自己否定」・「自己変革」・「自己進化」というプロセスを歩みながら、時代の変化に対応し生きて行く道を常に自ら考え続けねばなりません。
当ブログでは嘗て『論語』や『呻吟語』あるいは『呂氏春秋』といった書物から色々な人物判定の方法を御紹介しましたが、つまりは「恒心(こうしん)…常に定まったぶれない正しい心」がどうかの一点こそが急所であると思います。此の恒心というのは、「言うは易く行うは難し」で極めて難しいことであります。
その実現を図るに第一には、曾国藩が言う「四耐四不(したいしふ)…冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、もって大事を成すべし」で艱難辛苦を様々克服して行く中で、精神的タフネスを如何に養うかということに尽きましょう。
事業家でもそうですが、どこかで少し躓いたら直ぐ駄目になってしまう弱い人も結構いますが、いま苦しいのは「人間成長のためだ」「天が与えたもうた試練だ」として歯を食い縛り、之を頑張り抜く人間でなければ駄目だと思います。
何らか事を成そうと志す時、「発心」・「決心」までは誰でも行きます。しかしながら何年、何十年とそれを倦まず弛まず主体的に持続することは、並大抵ではありません。そこに仏教で言われる「相続心」というものが、最も大事になるのです。之が無いが為、多くの志が頓挫してしまうわけです。自分が一旦決めた事柄は何があっても貫き通すとか、貫き通すべく最大限の努力をし続けることが大事なのです。




 

『亡き李登輝氏に思う』

2020年8月31日 16:00

「台湾民主化の父」とも呼ばれた大指導者、李登輝元総統が亡くなられて後ひと月が経ちました。彼に関しては11年半も前になりますが、拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)の「プロローグ」の中で、私は下記の通り述べておきました。我々日本人が謙虚に傾聴すべき指摘であり、指導者たる者が目指すべき方向だとつくづく思います。今回の死去に際して、改めて下記記載しておきます。
 
 
『君子を目指せ 小人になるな』──これがこの本のタイトルです。
いかにも古めかしい。多くの若者は、時代錯誤も甚だしいと、中味を読む前に敬遠するかもしれません。にもかかわらず、何故こうしたタイトルにしたのか?
その理由は「君子」という言葉で象徴される人物の涵養こそが、今の日本には希求されていると確信するからです。「君子」の人物像については本論で詳述するとして、ここではまず日本と日本人の現状がどうであるかを見てみましょう。そうすることで今日の日本の問題点を浮き彫りにしたいと思うのです。
先日、台湾の元総統の李登輝が上梓した『最高指導者の条件』(PHP研究所)という本を読みました。彼は、日本の旧制中学・高等学校から京都帝国大学さらには米国のコーネル大学で学びましたが、その当時を懐古しながら、「かつての日本のエリート教育は、教養を非常に重んじ、品格を重視するものであった。歴史、哲学、芸術、科学技術など各方面を学習することで総合的な教養を育成し、ひいては国を愛し、人民を愛する心を備えさせようとした。そのために読書、なかでも古典を読むことを学生たちに求めた」と語っています。
そして当時の状況と比べて、「最近の日本では、大学ですら一般教養を軽視する風潮を露骨に見せはじめているようだ。だが、物質的な面ばかり重視するようになれば、精神的な面が疎かになる。人間として最も大事な青少年時代に、内面的な自己を涵養する機会が失われてしまうのである」「かつての日本には教養を重視する教育システムがあった。旧制高校、旧制大学では教室のなかでの勉強にとどまらず、教養を学ぶことが重んじられた。それが日本のエリート層を優れた指導者に育てる力になったと私は考えている」等々と語っています。
さらに彼の現在の日本及び日本人(とりわけエリート層)への辛辣な指摘は続きます。流石かつて「アジアの巨人」として世界中から高く評価され、台湾を繁栄に導いた指導者の言だけあり、謙虚に傾聴されるべき指摘だと思います。そこであえて、次にいくつか列挙しておくことにします。

○アメリカ、イギリスはもとより、多くの国では国家がはっきりとしたかたちで将来の指導者となるエリート層を養成している。ところが、戦後の日本はこれを怠っている。アメリカ式教育に表面的に倣い、テクニカルなレベルで一生懸命になるばかりで、本当に必要な「指導者をつくりあげる教育」をまったく実施していないとさえ思う。
○「仁」は世界でも最高に深遠な人間精神を反映しているものであり、日本が誇るべき文化であり、精神である。今日のような国際情勢のなかだからこそ、その価値の重要性を強く再認識する必要がある。
○現在の日本社会を見たとき、指導者に求められる精神修養が軽視されているのを感じる。合理的な発想からすれば、「知識」や「能力」さえあればよいかもしれない。だが人間はそれほど簡単なものではない。(中略)洞察力を持つには、人間の能力や計算ずくの利害関係を超越した発想が必要である。
○最近の日本の指導者は、部分的な細かいところにこだわる傾向が強いように見える。これを矯正するには、能力や駆け引きから隔絶した体験をすることである。たとえば道場で座禅を組む。
○指導者が能力や利害でのみ判断するかぎり、日本の政治に幅や大局観など生まれるはずがない。
○大事なのは「信念」であり、自らに対する「矜持」(確かな自信があっての誇り)なのだ。現在の日本の政治的混迷を見るたび、そしてさまざまな日本社会の停滞について耳にするたびに、私はそのことを思い出す。そうした信念や矜持をもつには精神的修養が重要で、それが最終的に、物事の本質を見抜く洞察力や大局観につながるのだ。
○かつての日本の官吏はじつに優秀で、人格的にも優れていた。(中略)ところが最近の日本の官僚に対する評価は地に落ちている。実際、日本の官僚たちの腐敗・堕落ぶりは、かなりひどいと聞く。

さて、長ながと李登輝元台湾総統の言を引用しましたが、その理由の一つは、彼が実体験として日本の戦前・戦後をよく知っていること。二つ目は、彼は一九二三年の生まれであり、すでに齢八十五才を超え、識見・見識は言うに及ばず、人生の厳粛な道理を心得体達しているということです。恐らく戦前・戦後の日本及び日本人を深く知る一般的識者の評も、残念ながらこうしたものでないかと思うのです。日本がなぜこうなったかと言えば、私はマッカーサー占領軍の日本弱体化政策、すなわち一切の歴史・伝統や精神的なもの、日本的なものを排除していこうという政策が大成功した結果であると考えています。
日本は占領軍の当初の思惑通り、戦後六十余年を経て危機的様相に陥ってしまいました。政治は短期間で次々と総理や大臣が辞任するなど混迷の様相を呈し、九十年代に入って世界の優等生であった経済ですら、バブル崩壊後、先進諸国で初めてデフレーション(対前年消費者物価上昇率が下落する)を経験し、一人当たりのGDPも一九九三年の世界第二位から二〇〇六年には世界第十八位に後退しました。今なお経済の停滞(スタグネーション)に直面しています。
また、教育の現場では、学級崩壊、学校崩壊、学力低下、いじめが問題となっていますし、さらに近年は親殺し、子殺し、児童虐待、老人虐待、自殺の増加といった新しいタイプの社会問題が顕在化してきています。
こうした問題の根本原因は何かというと、私は戦後の日本の教育にあると考えています。戦後の教育には、道徳的見識を育てる人間学という学問が欠落していました。今日の若者に、日本の高等教育で戦後軽視されてきた古典的教養を身につけさせることは、人間と人世の実践的原理・原則を学ぶ上で不可欠です。
ところが、悲しいかな最近の大学生の我が社における新卒採用面接での質問に対する答えから感じられる教養のなさにはしばしばがっかりさせられます。大学生の本分はあくまでも自己の学修と朋友との切磋琢磨にあります。にもかかわらず本分を忘れ、アルバイトとクラブやサークル活動に明け暮れている者が多いのには驚くばかりです。
本来、本分を全うすべくできる限り雑事にかかわることを自戒せねばならないはずです。若者の態度、言動、教養、品性はおのずから日本の前途を標示するものだとすれば、「後生畏(おそ)る可(べ)し。焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや」(『論語』子罕第九)などと安心している場合ではありません。人間の原理的教養の欠陥は、必ず精神力の不振となって表れてくるのです。
そうなると、気概・気迫・自信・見識の喪失となり、やがて逃避的、迎合的、日和見的になり、大事に臨んでも自己保身に汲々(きゅうきゅう)とするような人間になるのは目に見えています。
こうした現状を踏まえると、我々は国を挙げて道徳教育を主眼とした人物の養成に取り組まねばなりません。また戦後教育にどっぷり漬かった若者たちは人間学の学習と知行合一的な修養により自己人物を練らねばなりません。そして精神・道徳・人間の内的革命を遂行し、「君子」への道に確かな一歩を踏み出していかねばならないのです。




 


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