北尾吉孝日記

『語彙力というもの』

2018年6月15日 15:10

明治大学文学部教授の齋藤孝さんは「今、大人の言葉遣いが問題になってい」るとして、「子どもっぽい話し方をしている、社会人らしく見えない。そして、そのことで損をしてしまう。そういう方は増えているように思」われているようです。そしてまた、「活字文化から離れ、友だち同士のおしゃべりだけを続けていても、語彙は増えません。(中略)書き文字である活字というものを吸収していくことによって、日本語として使える語彙力を飛躍的に高めることができる」との指摘を行われているようです。
例えば語彙と交渉といった場合、語彙力は無いより有った方が良いに決まっていますし、語彙の豊富な人であれば色々な表現が出来、説得力を増すということもあり得る話だと思います。但し、交渉相手に十分教養が備わっていませんと、語彙を様々用い説得しようにも全く理解を得られないでしょう。こうした類では、双方が同等の教養を持ち合わせている、ということが一つ大事になると思います。
日本語の語彙の源は多くは漢籍にありますから、中国の古典といったものに対し殆ど触れることなく生きてきた人が多くなってきている状況下、当然ながら語彙は少なくなりましょう。例えば明治の知の巨人・安岡正篤先生は4、5歳の頃から漢籍の素読を始められ、此の素読が東洋の古典に向かう素地を身につける重要な体験になりました。
また私の場合はと言うと、幼少期から中国古典の片言隻句に触れてきました。勿論、自分から進んで漢籍を手にしたわけではありません。父が折に触れ中国古典の片言隻句を引きながら、古典の世界へと導いてくれたのです。今にして思えば、先ず簡潔にして端的な片言隻句によって中国古典に触れたのが良かったと思います。
あるいは、『日本外史』(…源平二氏以降徳川氏までの武家の興亡を、漢文体で記した歴史書)を著した江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人である、頼山陽(ライサンヨウ)の「漢文の巧みさは、明の復古派の文人たちよりもレベルが上」(譚献『復堂日記』)と激賞されたと言われます。山陽は14歳の時、「癸丑歳(きちゅうのとし)偶作」と題されたをつくり「江戸にいた父春水を始めとする学者たちの注目を浴び」たわけですが、その昔は、此の程度の年齢で堂々としたものを書ける位に漢文教育が為されていたのです。
翻って現代日本を見るに、学校・家庭を問わず教育環境は極めて御粗末であり、時間の経過と共に日本人の語彙力は益々低下して行くことになるでしょう。直近でも例えば平成34年度よりの所謂「新高等学校学習指導要領」を巡っては、坂本龍馬や吉田松陰あるいは武田信玄やクレオパトラ等々の歴史的な人物を含め、歴史「用語を現行のほぼ半数」程度に減らそうなどという馬鹿げた動きも見受けられました。
冒頭挙げた齋藤教授曰く『場合によっては、「すごい」とか「ヤバい」などと言っていたら、20語ぐらいですべての会話が終わってしまう』とのことですが、こうした表現を若い人が使っているのを聞きますと、語彙力の有無云々を通り越しているのではないかと感じます。尤も、逆に之は私の語彙力に問題があるのかもしれませんが(笑)、少なくともそういう言葉を聞くと、人間が浅く感じられる、ということだけは事実だろうと思います。
ただ、『論語』にあるように「辞は達するのみ」(衛霊公第十五の四十一)であり、基本は言葉や文章は、相手に十分にその意味や意志が伝えられれば良いとも思います。




 

アリババ創業者の馬雲(ジャック・マー)さんの言葉に、「他人から良く言われる時、実際には何もよくない。お前たちはダメだなと言われる時、結構良いんじゃないかな。こういう心理で今まで走り続けてきました」というのがあるようです。私の場合はと言うと、常に見るのは人でなく天であります。これまで、唯々自分の良心に顧みて「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」の精神の基、世の毀誉褒貶を顧みぬよう努めてきました。
それは正に『孟子』にある有名な孔子の言葉の如く、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」という世界です。何事においても何時も己の確固たるものを持ち主義・主張・立場を明確にし、自分の良心に恥じないような生き方を貫き通すことが大事だと思ってきました。
『論語』の「為政第二の二十四」に、「義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり」という孔子の言葉もありますが、私が中国古典とりわけ『論語』から学んできたのは、筋を通し義を貫くという生き方です。如何なる事態に直面しようともそうした姿勢を決して崩さず、世の様々な評判を一切気にせずに、自分が正しいと信じた道を勇気を持って突き進んできたつもりです。
もちろん人夫々の考え方や人生観で生きたら良いとは思いますが、そもそも人から良く言われようが悪く言われようが人の言など気にしていても仕方がないと思います。何故なら、嘗てのブログ『何のために命を使うか』(14年8月21日)でも述べた通り、此の世に生を受けた以上、我々は自らに与えられた天命を明らかにし、その天命を果たすために命を使わねばならないからです。
『論語』の「尭曰第二十の五」に、「命を知らざれば以て君子たること無きなり」という孔子の言があります。天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、それを知るべく自分自身を究尽し、己の使命を知って自分の天賦の才を開発し、自らの運命を切り開くのです。
あるいは佐藤一斎なども『言志録』の中で、「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」と言っています。
自分は天から如何なる能力が与えられ、如何なる天役(…此の地上におけるミッション)を授かり、如何なる形でその能力を開発して行けば良いのか――天が与えし自分の役目を己の力で一生懸命追求し、その中で自分自身を知って行くのです。
そして一度それを探し当てたらば、上記の言葉「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん」のように、人を超越し天と対峙して自らの心に一点の曇りなき事柄を、世のため人のため自分の使命として堂々と為して行くだけです。




 

『思考の整理学』(1983年)で有名なお茶の水女子大学名誉教授、外山滋比古さんは「読書が役立つのは30代まで」と断言されているようです。そして、「本好きな人は知識があることで人間的にどんどんダメになっていく。40歳を過ぎたら本に頼らず、自分で考える」とか、「知識が多い人ほど考えない。知識を自分のもののように使っていると、物マネ癖がついてしまいます」とかと、言われているようです。私は、年齢云々関係なしに、学びと思索というのは常に平衡裡に為されて行かねばならないと思っています。
国語辞書を見ますと、思索とは「論理的に筋道を立てて考えること」と簡単に書かれています。しかし、私は思索とは、少し考えたといった程度のものではなく、日々考えて考えて考え抜き、また考えながら学び続けて学び尽くす――思索といった時には此の両方が混在し、此の両方をバランスさせて行かなければならないと思います。
『論語』にある次の孔子の言葉にあるように、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二の十五)、即ち「学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」ということです。
更に私は『伝習録』にある王陽明の言、「知は行の始めなり。行は知の成るなり」でなければ、駄目だと思っています。つまり、知を得た人はどんどんとその知を行に移し、知と行とが一体になる知行合一的な動きに持って行かなければ、ある意味得たその知は本物には成り得ないということです。
世の中は常に変化し、変化と共に新たな思索が次々生まれ、人類社会は継続進化して行っています。勿論、時代変われども本質的に変わらぬ部分も沢山ありますが、20代・30代に詰め込み蓄えた知識だけでは如何ともし難くなるでしょう。学び薄くして唯我独尊の世界に入ったならば、之は大変な間違いを犯しかねません。「行年六十にして六十化す」(荘子)という位まで学び続け、思索を深め、知恵を磨いて行くことが大事だと思います。
学ぶとは、ある意味で多くの知見を集めること、英知を結集することであり、日々の社会生活の中でも為され得ることです。他方、そうした日常を離れ静かに先賢の書を読む中で、今一度心が洗われたりもするでしょう。あるいは良書を再読し、「この人が言いたかったのは、こうじゃなかったんだ。之は間違っていたなぁ」と昔の思いが理解できたりもするでしょう。
外山さんは94歳に成られる御年まで立派に生きられ大した人であろうと思いますが、安岡正篤先生にしろ森信三先生にしろ、生涯ずっと書を読み学び続けてきた人であります。いま偶々机上に、安岡正篤著『いかに生くべきか』(致知出版社)が置いてあります。此の本は何度読み返してみても、その時その時で付箋を貼ったり線を引いたりする箇所が必ずしも同じでなく、様々に違いのある示唆に富んだ一冊です。
例えば、書中に安岡先生は『菜根譚』の言葉「人を看るには只後半截を看よ」を引用しながら、「誠に人の晩年は一生の総決算期で、その人の真価の定まる時である」と書かれています。歳を取るに連れ、その人の地金が露わになってくるということで、我々は幾つになっても如何に生きるべきかを問い、学び続けねばならないと思います。




 
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