北尾吉孝日記

『四を絶つ』

2020年10月29日 16:45

私は前々回のブログ『一番最初に○○する人』で、『顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、許す位の包容力は持てるのかもしれません。包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います』と書きました。そしてそれに続けては、下記のように述べておきました。
――私は、「仁(じん)」の思想の原点に「恕(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。
『論語』の「子罕第九の四」に、「子、四(し)を絶つ。意(い)なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし」とあります。孔子は「私意がない、無理を通すことがない、物事に固執することがない、我を通すことがない」というのが大事だと考えて、「意必固我」を意識的に行わぬよう己を律してきました。
孔子が此の四を絶った理由は、徳をどう磨いて行くかを考えた時、自らに課した解決の仕方ではなかったか、と私は理解しています。そういう修養を積むことで、孔子という非常にバランスのとれた人間が出来上がったわけです。私は、意必固我を排して行こうというのが結局のところ、冒頭挙げた包容力の全てではないかというような気がします。
包容力とは、現代風に言えば、例えば多様性を受け入れて行くことです。人間誰しもが個を確立すると他を受け入れない、といった片一方の極に達します。意必固我に陥っている人は自分の考え方に拘り、自分の考えだけで物事を判断したり、何が何でも必ず自分が決めた通りにやろうとしたりするものです。
実は上に立つ者ほど、此の意必固我に陥り易い傾向にあります。意必固我を押し通せる立場にあり、また押し通すことが強いリーダーシップだと錯覚している人もいるからです。しかし意必固我を捨てられねば、物事の見方が狭く浅く偏った人物になってしまいます。そういう人物は、いわば中庸の対極にあると言えましょう。
もちろん組織において最終決断は、リーダーが一人で下す必要があります。しかしそれは、独裁ではあっても独断であってはいけません。リーダーが己の意必固我から離れ、広く深く偏りなく物事を見ることが出来ないと、正しい決断は困難になるのです。
では如何にして四を絶ち得るのかと言えば、先ず一つに私自身常に心掛けているのが、「思考の三原則」に則って物事を考えるということです。これ即ち一現象において、「枝葉末節ではなく根本を見る」「中長期的な視点を持つ」「多面的に見る」、の三つの側面に拠って物事を考察するのです。此の考え方を身に付けて行けば、意必固我はある程度減ぜられると思います。
そしてもう一つ、四を絶つ上では学問を怠らぬこと、学び続けることが大切です。孔子は、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し…学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」(為政第二の十五)と言っています。また別の章句では、「学べば則ち固ならず」(学而第一の八)とも言っています。学問をすれば、一事柄に執着する頑固者ではなくなるわけです。
学ぶことは、自分がそれまで知らなかった物事の道理や考え方を知ることです。更に言えば、「自分にも知らないものがある」ことを知ることでもあります。それを知った分だけ人は己に謙虚になり、意必固我から遠ざかり得るのです。「学んで」「思うて」己の視野を広め、思考を深めて行く――そうやって一歩一歩、意をなくし、必をなくし、固をなくし、我をなくし、孔子が最高至上とした中庸の徳の境地に近付けたら最高ですね。




 

『道の歌』

2020年10月22日 13:30

欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつれて 道を忘るゝ--私は、先月初旬この道歌をリツイートしました。道歌とは、道徳的な教えを分かりやすく読み込んだ、正に道の歌です。覚えやすく心に響くものが、道歌の中には数多あります。
何ゆえ道歌が皆に親しまれるのかと言えば、ある意味それは体験的な知恵でもあるからでしょう。8年も前になりますが、私は『道歌いろいろ』と題したブログを書きました。そこで御紹介した、私が好きな素晴らしい道歌33首を改めて、ここに記しておきます。

1.「まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸」
2.「人多き 人の中にぞ 人ぞなき 人となれ人 人となせ人」
3.「憎むとも にくみ返すな にくまれて 憎みにくまれ 果てしなければ」
4.「世の中は ただ何となく 住むぞ善き 心一つを すなほにして」
5.「へつらわず 奢ることなく 争わず 欲を離れて 義理を案ぜよ」
6.「今今と 今という間に 今ぞなく 今という間に 今ぞ過ぎ行く」
7.「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
8.「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」
9.「つとめても なおつとめても つとめても つとめたらぬは つとめなりけり」
10.「人使う 身になればこそ 使わるる 心となりて 人を使えよ」
11.「足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり」
12.「身を思う 心は身をば 苦しむる 身を思わば 身こそ安けれ」
13.「目で見せて 耳で聞かせて して見せて やらせて褒めにゃ 事ならぬなり」
14.「我を捨てて 人に物問い 習うこそ 知恵をもとむる 秘法なりけり」
15.「孝行を したい頃には 親はなし 孝のしどきは 今とこそ知れ」
16.「孝行を 肌身こころに 離さずば いづくへ行くも 怪我はあるまじ」
17.「父母の恩 山より高く 底深き うみの親ほど 尊きはなし」
18.「堪忍の なる堪忍は 誰もする ならぬ堪忍 するが堪忍」
19.「堪忍の なる堪忍が 堪忍か ならぬ堪忍 するが堪忍」
20.「堪え忍ぶ 心しなくば 誰もみな 欲と怒りに 身をばたもたじ」
21.「腹を立つ 心より火の 燃えいでて 我と我が身を 焦がしこそすれ」
22.「三度炊く 米さえこわし 柔らかし 思いのままに ならぬ世の中」
23.「何ごとも 満つれば欠くる 世の中の 月をわが身の 慎みにせよ」
24.「恐るべき 槍より怖き 舌の先 これがわが身を つき崩すなり」
25.「悪いこと 人は知らぬと 思うなよ 天に口あり 壁に耳あり」
26.「気は長く 勤めはつよく 色うすく 食ほそくして 心広かれ」
27.「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」
28.「養生は ただ働くに しくはなし 流るる水の くさらぬを見よ」
29.「苦しみて 後に楽こそ 知らるなれ 苦労知らずに 楽は味なし」
30.「金金と やたらに金を かきこんで 金の重さに 腰が折れけり」
31.「金欲しや 地獄の沙汰も 金次第 とはいえ金で ゆけぬ極楽」
32.「百薬の 長たるゆえに かえりては また百病の もととなる酒」
33.「慎めや 鏡は姿 見すれども 酒は心の 内を見すれば」

今のコロナ禍で社会生活を犠牲にしてでも兎に角ひきこもる、といった現象が見られます。そう思っている人達には此の道歌、28.「養生は ただ働くに しくはなし 流るる水の くさらぬを見よ」。人間である以上、人との繋がりや仕事といった類から余りに隔離すれば、之は之で大問題です。場合によっては、コロナ以上の問題になり得ます。我々の社会生活は様々な意味も含め、ある程度のバランスを取って行く必要があるのです。
それから、来年70歳に達する私としては次の道歌2首、6.「今今と 今という間に 今ぞなく 今という間に 今ぞ過ぎ行く」/7.「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」。追い迫る老というものに対峙し自分を律する上で、日々こうした道歌がパッと頭に浮かんできます。
あるいは、再来月96歳になる母親を見ていては此の道歌、15.「孝行を したい頃には 親はなし 孝のしどきは 今とこそ知れ」。道歌というのは、今なお人間としての重要な道を分かり易く教えており、その時その時の自分の状況に強く響くものです。皆様も毎日の生活の中で折に触れ、先人が編み出した教訓的な短歌を思い出されてみては如何でしょうか。




 

『一番最初に○○する人』

2020年10月16日 15:35

一番最初に謝る人は、一番勇気がある人。一番最初に許す人は、一番強い人。一番最初に忘れる人は、一番幸せな人。…The first to apologize is the bravest, the first to forgive is the strongest, and the first to forget is the happiest.--は、今年6月にリツイートしたものです。誰がどういうつもりで残した言葉かは知りませんが、本ブログで以下に私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。
先ず「一番最初に謝る人は、一番勇気がある人」。謝るとは自分の非を認めるということですから、ある面で勇気も必要です。もっと言えば非を認めるとは、自分の一部を否定するということであります。その自己否定の結果、謝る対象者に対して尊敬する心を持つとか恥じ入る心を持つといった、謝るために必要な様々な心の動きというものがあるはずです。その心の動きを持つということは、ある意味勇気があることかもしれません。
明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生も、『修身教授録』の中で「師説を吸収せんとせば、すべからくまず自らを空しうするを要す。これ即ち敬なり。故に敬はまた力なり」と述べておられます。誰かに非常に傾倒しその人から長所を出来るだけ取り入れようとする、言ってみれば、その人に感じる「敬」の気持ちに対しその対極にある「恥」の気持ちを抱く中で自分をある意味否定して行く、ということであります。
次に「一番最初に許す人は、一番強い人」。王陽明の言葉「天下の事、万変と雖(いえど)も吾が之に応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出でず」の中にも「怒」が含まれているように、怒りという感情を何らかの形で持った動物として天は我々人間を創りたもうたのです。従って之を治すは、至難の業なのだろうと思います。但し顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、許す位の包容力は持てるのかもしれません。
包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います。私は、「仁(じん)」の思想の原点に「(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。
そして最後に「一番最初に忘れる人は、一番幸せな人」。此の部分については全く以て同意出来ません。之は一言で言うと、極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ…楽天的でのんきそうな者をあざけったりからかったりしていう語)の類ではないでしょうか。




 


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