北尾吉孝日記

『古典を読む』

2020年2月21日 15:00

ダイヤモンド・オンラインに昨年11月、『大企業の社長が「古典」を読むのには理由がある』と題された記事がありました。不肖私も紹介されております。立派な経営者、人物には教養人が多く、当然ながら彼らは様々な書物、取り分け精神の糧になるものを読んでいます。自分自身を更に成長させるべく、歴史の篩に掛かった古典を読むわけです。
『旧約聖書』に「天の下に新しきものなし」という言葉があります。現存する全ては形は違えど過去に出来たものであり、洋の東西古今を問わず人間性も変わらないのです。それ故古典に普遍妥当性が生まれ、それを今日まで生長らえさせ、二千数百年に亘りどの時代の人間が読んでも素晴らしいと思わせてきたのです。
従って古典を読まないと、世の真理や不変なものが十分に身に付いて行かず、非常に浅薄な人間にならざるを得ないのではないかと思います。以下、此の古典に限った事柄ではありませんが、書の読み方として私が大事だと思うポイントを三つ挙げておきます。
第一に、批判的に読むということです。「著者の主張は尤もだ。この本は良かった」「あぁ、この本も良かった」「これは良い本だなぁ。この人の考えは道理に適っている」等々と、その内容を次々鵜呑みにしてしまうのではいけません。『孟子』に「尽(ことごと)く書を信ずれば即ち書無きに如(し)かず」とあるように、「書物を読んでも、批判の目を持たずそのすべてを信ずるならば、かえって書物を読まないほうがよい」のです。ちなみに、孟子の言う書とは『書経』を指しています。
第二に、主体的に読むということです。「その場面に直面したら、自分ならどうするか」「私はこう考えるが、なぜ著者はこのように考えるのか」等々と、常々主体的に考えながら読むのです。虎関禅師が「古教照心 心照古教」と言われたように、「心照古教」の境地に達することが良いとされています。そうかそうかと受動的な読み方、「古教照心」では活きた力にはなりません。
先哲の知恵を現代世界に投影してくる中で、何時の間にかその知恵と同じレベルに自分を置いて行くのです。そして自分の心が書物の方を照らす、「心照古教」という位にまで自分のものとし、先哲に「こんな考えもありますが、如何で御座いましょうか」と言える位にまでなって行けたら最高でしょう。残念ながら、こうした境地は小生も未だ達していないレベルです。
第三に、知行合一的に現実に活かすということです。知識は知識である限り、何も活かせません。歴史の篩に掛かった古典であっても、読破あるいは積読だけでは仕方がないでしょう。知で得たものを自分の血となり肉となるようにして行くのです。之は、行を通じて初めて出来るものであります。「知は行の始めなり。行は知の成るなり」(王陽明)です。
我々は君子を目指し日々、人物を磨かねばなりません。先達より虚心坦懐に教えを乞うと共に、社会生活の中で知行合一的に事上磨錬し続け、己を鍛え上げるべく励んで行くのです。その時に、上記三点を守りながら書を読む、取り分け精神の糧になるような古典を読むことが、私は非常に大事だと思います。




 

『貯蓄から投資へ』

2020年2月14日 17:45

先日Twitterを見ていましたら、私の「名言」として次のツイートがありました――本来ならば、中学卒業までに金融の基礎をしっかり教えなくてはならないのです。ところが日本の学校で教えるのは、銀行のメカニズムだけなのです。これでは、子供に泳ぎ方を教えずにいきなり大海原に放り出すようなものです。
再来年4月よりの『高校の新学習指導要領は、家計管理などを教える家庭科の授業で「資産形成」の視点に触れるよう規定し(中略)、株式や債券、投資信託など基本的な金融商品の特徴を教えることになる』ようですが、私の従前の持論は冒頭のように義務教育中にそれを教えねばならないというものです。と言いますのも、義務教育を終えて後すぐに社会に出て行く若者もいるからです。
未だ蔓延る「学校で投資教育とは何事だ!」といった風潮は、私に言わせればナンセンスの極致です。これまでの学校教育の在り方がゆえ日本は、ネガティブ金利の時代にあって個人金融資産の52.9%を「現金・預金」が占めることになり、また「老後2000万円問題」でこれだけ多くの国民が悩まねばならなくなったのです。これ正に義務教育の期間に、お金をどう運用して行くかを学び、銀行預金以外の選択肢に理解を得ておくことが極めて大事だと思う所以であります。
管子』(中国古代の政治論集)に、「一年の計は穀(こく)を樹(う)うるに如(し)くはなく、十年の計は木を樹うるに如くはなく、終身の計は人を樹うるに如くはなし…一年で成果を挙げようとするなら、穀物を植えることだ。十年先を考えるなら、木を植えることだ。終身の計を立てるなら、人材を育てることに尽きる」という有名な言葉があります。
例えば、私が生きて来た時代において、リーダーシップを発揮し、日本の国力向上のため非常に大きな働きをした総理の一人に、池田勇人氏が挙げられます。彼は60年前、10年間で国民所得を倍にするという所得倍増論を展開し、実質的にそれを成し遂げた偉大な人物です。
池田氏がある意味一つの長期計画として「所得倍増計画」を打ち立てたからこそ、経済の高度成長に繋がって行ったわけです。つまりは、国の政治あるいは政策に関わるような所から一般の家庭においても、長期計画の中で様々な問題を解決すべく人を育てて行かねばならないということです。之は、義務教育からの投資教育といった文脈にも当て嵌まるものでしょう。
ウォーレン・バフェット氏(11歳から投資を開始)等々を例示するまでもなく、今この時代、高校から「基本的な金融商品の特徴を教える」などとは余りにも遅すぎます。高度化・多様化した金融商品を自己責任で選び、大幅に延びた老後を自分で設計して行かねばならない「人生100年時代」――義務教育の内にマーケットの仕組の学習を終え、長期計画の内に投資センスを身に付け磨いて行くことが益々求められると思います。




 

『人物を知る』

2020年2月7日 15:50

本年、鈴木茂晴さん(日本証券業協会会長)に始まった「私の履歴書」(日経新聞)は現在、樂直入さん(陶芸家・十五代樂吉左衞門)が連載中です。思い返してみますと昨年、「平成最後の年の正月の連載」は石原邦夫さん(東京海上日動火災保険相談役)によるもので、一部で当時大変な話題となりました。
ある経営学者曰く、『僕が「私の履歴書」を読む動機は、それ(=経営者の自伝が勉強になるということ)以上に功成り名を遂げた人々の「センス」を知ることにある』とした上で、石原さんの連載につき、「他の大企業経営者と比べても、つまらなさの次元が違う。それがたまらなく面白い。(中略)その桁違いのつまらなさに、むしろ保険会社の経営者としての凄みを感じた」ということでした。
先ず、センスの有無と言いますと軽く・浅く感じられるため、私自身はそれに足る「人物」であるか否かとしたいと思います。その上で、私からすると、石原邦夫という御方は人物として非常に御立派な方と思います。また、「桁外れにつまらない」と評された連載に関しても、私自身はそういうふうにも思いませんでした。
ある意味非常に難しい時代に当たる指導者もいれば、その逆も然りです。それは、夫々の巡り合せによって色々な違いが起こってきます。概して、大変な難局を切り抜けたといった場合、多数の人がその社長を評価するでしょう。逆に、比較的大事が無く誰でも行けるような環境下で社長職を務めた人は、終生その人物に相応しい評価を受けることがないかもしれません。そういう意味では、様々な経営環境がその人の評価自体を決する部分も色濃くあろうかと思います。
唯、人物というのは経営環境に左右されるものではありません。それは、その人の生き方に依るものです。例えば、『論語』に「君子は人の美を成す」(顔淵第十二の十六)という孔子の言があります。人の長所は長所として認め、人の短所は短所として分かった上で、その「人の美」を追求し、「益々それが良きものとなるよう手伝ってあげよう」とか、「それでも補い切れない欠点は自分が何とかしてあげよう」とかと、思えるのが君子の生き方なのです。
君子と小人の区別は、時代により人により様々です。拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)第四章の3では、「私が考える君子の六つの条件」につき次の通り述べておきました――①徳性を高める/②私利私欲を捨て、道義を重んじる/③常に人を愛し、人を敬する心を持つ/④信を貫き、行動を重んじる/⑤世のため人のために大きな志を抱く/⑥世の毀誉褒貶を意に介さず、不断の努力を続ける。
その人が君子としての生き方を如何に歩んだかで、経営者としての評価が決すると私は思っています。君子たる道を歩む中で様々な事柄を経験し色々な判断・処理をしてきたものの、それを文書にしてみたら大した事が起こっておらず大して面白味が無かったとしましょう。しかし、その人物は素晴らしい経営者ということではないでしょうか。




 


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