北尾吉孝日記

『明るい人、暗い人』

2016年8月26日 17:00

トップは常に発光体でなくてはいけません。トップが暗い顔をしていると(会社全体の雰囲気が悪くなり)会社の運気を悪くするだけです。だから常に明るい会社にしておく必要がありますし、そういう意味でも和みや安らぎが感じられる会社でなくてはいけません――之は、拙著『ビジネスに活かす「論語」』(致知出版社)第五章で「常に戦場にいる意識を持つ必要がある」と題して述べた一節です。
多くの人を引っ張って行くリーダーは、常に暗いという人はリーダーとしては失格でしょう。リーダーという職責に在る人は、明るくなければその責任を果たし得ないとは言えるかもしれません。
昔し、小生のことを可愛がってくれた人に、八尋俊邦さんという方がおられました。三井物産で社長、会長を務められた方です。八尋さんは「ネアカ、のびのび、へこたれず」という名言を残されています。ネアカということはリーダーに限らず大切なことだと思います。
尤も、仕事によっては別に明るくなる必要性はありません。例えば「緑色蛍光タンパク質 GFPの発見と開発」に対し、Martin Chalfie博士(米)及びRoger Y. Tsien博士(米)と共に08年ノーベル化学賞を授与された、下村脩博士を考えてみましょう。
博士の場合「一家総出で、19年間に85万匹ものオワンクラゲを採集した結果がノーベル賞へ」と繋がって行きました。博士はクラゲを解剖し続け60年代に、オワンクラゲの発光源GFPを発見したのです。
そうして自分でずっと研究している下村博士のような方は、それ程明るい人間でなくても良いでしょう。仮に博士が所謂「暗い人」であるとしても、その暗い人が人類社会の発展に多大なる貢献を果たしているわけです。
人間やはり夫々に染み付いたものがありますから、明るいから良いとか暗いから駄目とかとは必ずしも言えないでしょう。但しリーダーはこう在るべきだとは前述の通り、発行体で常に明るくある必要性があるとは言えるのかもしれません。
『論語』の「衛霊公第十五の二」に、「君子固(もと)より窮(きゅう)す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る…小人は窮すると取り乱すが、君子は窮しても泰然としている」という孔子のがあります。
君子は常に定まった恒の心、恒心で乱れることがないのです。そして恒心を保っていればこそ、発光体であり続けることが出来るのです。また同時に、全体の雰囲気を和に持って行くことも出来るというわけです。




 

上司の対抗意識に翻弄されることなく成果をあげつづけるには、つぎのプレゼンの前に上司になにかちょっとした助言を求め、経験の多い上司から学ぼうとする部下として印象づける手がある――之は、『ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(早川書房)の中にある一文です。
此の本にも書かれている通り、各職場には「要求が多いうえ、気まぐれ」で「扱いにくい上司」も勿論いるでしょう。しかし上記のやり方で媚び諂ってみたところで、そもそも気まぐれな上司であったらば「何だ、こんなこと自分で考えたら良いじゃないか」といった具合に、逆に思ったりもするでしょう。従って筆者が挙げる「手」は、気まぐれな上司や「横柄な上司がいたらどうするか」に対する解決策になるとは、私には凡そ思えません。
『論語』の「述而第七の二十一」に、「我れ三人行えば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択(えら)びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む」という孔子のがあります。彼は、「三人が連れ立って行けば、必ず手本となる先生を見つけることが出来る。善いものを持っている人からは、之を積極的に学び、善くない人からは、それを見て我が身を振り返り改めることが出来るからだ」と言っています。
反面教師という言葉もありますが、悪い人を見ればまたその人からも、こういうことはすべきではない、という形で反省に繋がることにもなるでしょう。「自分も彼女と同じような欠点を持ってはいないだろうか」「自分が彼のようにならない為にはどうすれば良いのか」等と自分を振り返って見、気が付くところがあれば改めて「善からざる者も師」と割り切り「森羅万象わが師」と思うようになるのです。
冒頭挙げたような問題含みの上司を得た場合、自分はそうならないよう常に自分自身を謙虚に省み、自分自身を向上させようと努める方が、媚び諂って上司の懐に入り込み良い点を付けて貰おうなどと考えるより、余っ程重要なことだと私には思えます。詰まらぬ上司がどうこうと考えるのでなく、己が正しいと思う事柄を常時きちっと遣り上げれば、それで良いのです。
そしてまた、実際その気まぐれ上司が上司として本当に駄目かどうかについても、実は自分の間違いで上司が間違っていると勝手に思い込んでいるだけかもしれません。それ故その辺りを自分で正しく判断できなければ、そもそもがout of the questionです。そうした判断を誤らないようにするためには、それだけ自分が勉強しなければなりません。
自分がちゃんと勉強し、その上でも上司に誤りがあると思うなら、それを上司にも堂々と伝える勇気を持ったら良いでしょう。世の中には、そういう上司もいれば、まともな上司もいるわけで、何もダメ上司の言動に振り回され続ける必要性は、全くありません。
時として人は、上司が一人しかいないかの如く錯覚し、振る舞いがちです。しかし実際はそうではありませんし、またずっと見ている人は見ているわけで、まともな人も必ずいます。
そのまともな人に「あんな馬鹿な上司に媚び諂って…」というふうに見せるよりも寧ろ、堂々とその馬鹿な上司に対して正論を吐いて、まともな上司からは「中々気概ある若者だなぁ」と思って貰う方が、余っ程価値あることだと私には思えます。




 

『商売というもの』

2016年8月22日 17:35

松下幸之助さんは、商売ということで様々言われています。例えば「商売とは、感動を与えることである」と言われたり、また「商売は成功できるようにできている。成功しないのは成功するようにしていないだけだ」とも言われています。
あるいは、御著書『人間としての成功』の中では「商売の使命」と題して、「やはり大事なことは、暮らしを高めるために世間が求めているものを心を込めてつくり、精いっぱいのサービスをもって提供してゆくこと、つまり、社会に奉仕してゆくということではないだろうか。(中略)そしてその使命に基づいて商売を力強く推し進めてゆくならば、いわばその報酬としておのずと適正な利益が世間から与えられてくるのだと思う」と述べておられます。
商売というものは相手のある世界ですから、相手が望むものを持って行き、結果としてその対価を貰って、そこに一種の適正利潤も発生するわけで、之が商売の基本です。相手が買ってくれるか否かはイコール、相手の興味を引くもの・相手が必要だと思うものを相手にぶつけているかどうかに因りましょう。それ如何により初めて商売というのは発生してくるわけで、相手のニーズを読むということが求められます。
世に人は多種多様でマスを対象にする商売から、極少数を対象にする商売があろうかと思います。例えば、マス対象のそれは割合在り来りなもので、生活の中で殆どの人が必要とするものを提供しており、大して難しいと感じません。
では、作ったものがどうしたら成功裏に売れるかと考えると、言うまでもなく一つには商機を狙い、それを掴むということが挙げられましょう。あるいは、同じように見えて品質に違いがあるとか、品質レベルは同じだが価格に違いがあるとか、といったこともありましょう。
そういう中で商売が出来るかどうかが、決まって行くわけです。商品の価格・クオリティ・アベイラビリティ、そして販売チャネル等々も含めて全てにある意味気を配って行かなければ中々、商売というのは上手く行かないものです。
「自分は世間とともにあるのだ、また世間の人びとはまことに親切に自分を導いてくださるのだというような考えのもとに、お客さんなりお得意さんに接してゆくならば、商売というものは非常にしやすいものになると思う」と松下さんは言われていますが、全く同感です。しかし、そうして接して行くことが出来ない人が、意外と多くいるように感じます。
ネット社会の現在では、カスタマー・サティスファクション(顧客満足度)を如何に高めるかに配慮しなければ、生き残って行けません。また、御客様のニーズも極めて多様化し、単純なマスプロダクション・マスプロモーションでは、成功するのは困難になってきています。
例えば、アマゾンなどでも巨大なウェアハウスを幾つも作り、品揃えを徹底して多様な顧客ニーズに備えています。また、最初からニッチなマーケットだけを狙った店も出現しています。
松下さんの時代とは隔世の感があります。しかし、松下さんが言われるように、商売の本質は相手のニーズを読むことで、それは不変だと思います。




 
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