北尾吉孝日記

『任重くして道遠し』

2016年5月24日 17:55

森信三先生は「学問における自覚」ということで、次のように言われています--直線は如何に延長するも、ついに直線を出でず。それが円環となるには、直線は自らの進路を遮断せられせられて、無限にその方向を転ずるの極、ついに円と成る。学問における自覚もまたかくの如しとやいうべけむ。
森先生が言わんとしている内容を考えてみるに、之は何も難しい事柄を述べられているわけでなく、学問の世界とは永遠に続くということだと私は解釈しています。では何ゆえ永遠に続くかと言うなれば、結局いつまで経ってもある意味解が出てこないからでしょう。
論語』の「泰伯(たいはく)第八の七」で、曾子(そうし)は「士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦(また)重からずや。死して後已(や)む、亦遠からずや」と言っています。
任重くして道遠し--人道を極めるとは正に重く遠い道程であって、行けども行けども答えに容易に辿り着けないものなのです。之で御仕舞という所なくそれを探し求めて、ずっと学問をし続けて行くのが学問の世界ではないかと考えています。
直線の世界というのは、ある意味結論が見えるのではないでしょうか。中々そこに到達できずに延長せねばならない、といったことも時には有るかもしれません。しかし此の道を歩んで行けば何れ解に巡り合える、とは分かるものだと思います。
他方で円というのは直線の如く単純でなしに、果たして自分の悩みが正しいのか否かすら、延々見えてこない位の大変な世界であります。森先生が言われるように「円環となるには、直線は自らの進路を遮断せられせられて、無限にその方向を転ずるの極、ついに円と成る」とは正にその通りです。
佐藤一斎の「三学戒」にあるように「壮にして学べば老いて衰えず…壮年になって学べば、年をとっても衰えず、いつまでも活き活きとしていられる」というわけで、棺桶に入るまで学を磨き続けねばならないものと捉えるべきだと思います。
「年五十にして四十九年の非を知る」(淮南子)、「行年六十にして六十化す」(荘子)という言葉があります。何歳になろうが兎に角一生修養し続けるという意識を持って、自己の向上を目指す努力を惜しまず、死ぬまで学を続けて行くことが大事なのだと思っています。




 

私は先週金曜日『常識なき都知事は去れ』というブログを書きましたが、その後続々出てくる様々な事実と思われる雑誌等の調査から判断するに、之は単に彼に常識がないという程度の話では済まされないことがよく分かりました。
次の言葉は近代経営学の父と呼ばれる、ピーター・F・ドラッカーの言葉です--経営者が為さねばならぬことは学ぶことが出来る。しかし経営者が学び得ないが、どうしても身につけなければならない資質がある。それは天才的な才能ではなくて、実はその人の品性なのである。
之は経営者に限った話ではありません。指導者たるに、ある意味どうしても身に付けねばならないものが此の品性なのです。舛添氏に纏わる色々な疑惑が事実であるとするならば或いは、それ待たずとも一週間前の記者会見だけで十分、彼には品性なき男というレッテルを貼らざるを得ないと思うのです。
私が安岡正篤先生と並んで私淑する、明治・大正・昭和と生き抜いた大哲人であり教育家である森信三先生も『修身教授録』の中で、次のように述べておられます--この気品というものが、ある意味では、全人格の結晶だと言うこともできましょう。実際気品というものは、その人から発する、いわば内面的な香りとでも言うべきもので、ここぞと、形の上にいって捉えることのできないものです。
森先生はまた「真の気品というものは、人間一代の修養のみでは、その完成に達し得ないほどに根深いものであると同時に、他面また気品を身につけるには、依然として修養によって心を清める以外に、その途のないことが明らかなわけです」というふうに言われてもいます。
あるいは福沢諭吉の言葉に、「独立自尊」というのが有名です。此の独立とは「自らの頭で考え判断するための知力を備えることにより、精神的に自立する」ということで、自尊とは「自らの品格を保つということ」です。舛添氏というのは当該思想とは、無縁だと思います。
今回彼を巡る一連の言動につきネットや新聞等で垣間見るに、舛添要一氏とは正に品性欠如の典型だとつくづく思いました。品性欠如は時として、吝嗇(りんしょく)というところで表れます。吝嗇とは中国古典でも最も軽蔑されていることで、一言で言えばケチということです。
例えば孔子は、「如(も)し周公(しゅうこう)の才の美ありとも、驕(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、其の余(よ)は観るに足らざるのみ」(泰伯第八の十一)、つまり「たとえ周公のような才能と美徳を具えていても、傲慢で吝嗇ならば、その点で何の取り柄もなくなってしまう」と言っています。吝嗇というものが最も、人間の品性と関わっているということです。
先週木曜日、前日発売の『週刊文春』の記事を受けてネットでも、『「血税タカリ 自腹の時はマックのクーポン」の舛添都知事に「リアルつるピカハゲ丸くん」「つるセコクーポン知事」の声』と題された記事も見られました。
己の金一銭すら出すのは拒み人の金は幾らでも使おうとする--舛添氏は正に吝嗇そのものを体現しているよう思われます。此の人は昔から言われる「出すのは舌を出すのもいやだけれども、貰うものなら猫の死骸でももらう」という人ではないでしょうか。
政権与党の自公両党としても、彼に関わり合うことを早々に止めた方が良いでしょう。何時までも結論を出せずに彼を叩き切ることが出来なければ、来たる参院選に多大なるネガティブインパクトが及ぶのではと危惧しています。
自公には2年前の2月の都知事選で自ら、彼を推薦し応援した責任があります。それが過ちであったと分かった今一刻も早く彼を引き摺り下ろし、都の人材として真に必要な人物を党派を超えてサポートして行くべきだと思います。




 

『己に厳しく人に寛大に』

2016年5月18日 14:55

『小学』の中に、次の范忠宣公(はんちゅうせんこう)の戒めの言葉があります--爾曹(なんぢがともがら)但(ただ)常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心もて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患(うれ)へず。
ある種の性かもしれませんが人間とは常に、自分を責めるに寛大過ぎて自分を褒めるに寛容過ぎる、というところが有り勝ちです。本来は己に厳しく人にある意味優しくするのが、正しい生き方だということです。
之は極々当たり前の話ですが、中々そう出来る人なき難しい話です。己に寛容で人に対して厳格というのが、これまでの人間社会の一般的風潮でありましょう。その中で「聖賢」と呼ばれるような人物は、そうした境地を解脱して人を利するところまで行くというわけです。之はもう修養を積む以外にない道だと思います。
ではそれが偉人に限ったものかと言えば、必ずしもそうではないように思います。その手本として一つには、自分よりも子供をと常に、ある種の犠牲的精神を発揮する母親に見出せましょう。
勿論、現代社会にあっては之だけ虐待が広がっているわけですから、そうでないケースも当然あります。但し母親というものは本来、上記した精神的要素を有するもので、それ故そこに範を求められると思います。
例えば、他人の子供がぴいぴいぴいぴいと泣いたり喚いたりしている状況に遭遇したと仮定します。その時子育て経験の有る夫婦は基本、頭にくることなく理解を示すことでしょう。逆に子育て経験の無い夫婦の多くは実は、それを見て直ぐに「ウルサイなぁ」というふうな感じになってしまうものです。
自ら子供を育てることによって、ある種の寛容や忍耐あるいは自己犠牲といったものが、養われ行くわけです。子を持たない人がそうした類を身に付けようとしたらば、3~4倍の努力が必要とされましょう。
『徒然草』の中にも「恩愛の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ」という言葉があります。恩愛の情とは「子持ちてこそ」出て来たりするものです。
あるいは孟子の言う「惻隠の情」、つまり「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち・心があります。此の惻隠の情についても必ずしもそうではないかもしれませんが、どちらかと言うと子供を持っている方が強いように私には思われます。
上記の通り、子を授かり育てると様々修養されてくる部分があります。子供がいないのであれば何倍もの修養を積み重ねないと、「聖賢」には中々近づいては行けません。




 
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