北尾吉孝日記

『老子は年寄り向き?』

2017年12月11日 15:55

『老子』第六十七章に、「我に三宝あり、持して而して之を保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先とならず。慈なり、故に能く勇。倹なり、故に能く広し。敢えて天下の先とならず、故に能く器の長と成る」という有名な一節があります。
之は、「我には常に心に持して努めている三つの宝がある。一に慈、二に倹、三に敢えて天下の先にならぬことである。真の勇とは慈愛の心より生じ、真に広く通ずるは節倹なるが故である。敢えて天下の先とならずして退を好む、故に万民百官あらゆるものを統べるに足る」ということです。
此の「三宝」の内、三番目の「敢えて天下の先とならず…人に先んじようとしない事」が最も老子らしいと言えるでしょう。一番目の「慈…慈しみの心」及び二番目の「倹…倹しく暮らす事」は、古来からの一般的な道徳としてあることで、当たり前と言えば当たり前です。勿論、その道徳の中で何を大事にするかといった優先順位の付け方は老子の一つの考え方でしょうし、之が孔子になれば「仁・義・信」ということになるのだろうと思います。
例えば、『論語』の「憲問第十四の三十六」で孔子が「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」と述べている一方で、『老子』の第六十三章には「怨みに報ゆるに徳を以てす」という言葉があります。「直き…公正公平」か「徳…恩徳」か何を以って怨みに報いるのかが、孔子と老子とでは全く違っているわけです。夫々の思想の違いは、沢山あって大変興味深いものがあります。
ちなみに、徳性高き蒋介石が「怨みに報ゆるに徳を以てす」とし、戦後日本が安全に引き上げる上で非常に大きな働きをしてくれたことは、嘗てのブログ『人に対する姿勢』(13年2月25日)の中で、拙著『人物をつくる―真の経営者に求められるもの』(PHP研究所)より引用して御紹介した通りです。
上記一番老子らしいとした「敢えて天下の先とならず」につき、正義感に燃える若者や進取の気性に富む若い人にとっては、納得し難いのが普通ではないかと思います。之は、ある程度の年配になり自分が「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」(『易経』)の境地になって初めて言えることではないでしょうか。
年を取り円熟すると老子が好きになるという人も結構いますが、年を取りある意味余り角がなくなってくると老子の思想の方が受け入れ易くなるのかもしれません。例えば、安岡正篤先生なども恐らく少し年を召されてからの方が、孔孟(…孔子と孟子)思想というよりも老荘(…老子と荘子)思想に対する興味関心をより強く抱き、惹かれるようなられたのではないかと思います。
「韓非の政治哲学の根本にあるのは“黄老”である」とは司馬遷のですが、此の黄老(…黄帝と老子)とは『老子』の主張した政治哲学を言います。それは、生一本(きいっぽん)のような世界でなく、正に「古いものほど風味がなれてよくなる」老酒(ラオチュー)の如き枯れた境地にある人が「あぁ、なるほど…」と思う味わい深きことです。私なども、これから段々と円熟味(?)を増してくるにつれ、「なるほどなぁ~」と老子の言に思うことが更に増えてくるような気がします。




 

『人間が変わる方法』

2017年12月5日 15:55

先日Twitterを見ていたところ、「人間が変わる方法は3つしかない。1番目は時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは『決意を新たにする』ことだ」という大前研一 BOT (@ohmaebot)さんのツイートがありました。
4年半程前、私は『人が変わる時』と題したブログを書いたことがあります。人生には幾つかの大きな転機があって、その転機で人が変わり得る可能性は非常に高く、例えば男性の場合は結婚をし、妻子とりわけ自分の血を分けた子供を養って行くという責任が課された時、その中で変わろうと決意をする人が、私の経験上では多いように思います。「発心」「決心」「相続心」という言葉がありますが、その変化に対する決意は相続心にまでなって続いて行くケースが結構あるわけです。
あるいは、素晴らしい人との出会いというものが人を変えて行く切っ掛けになり得ます。自分より優れた人間を見た時にその人を敬する心を持つのと同時に自分がその人間より劣っていることを恥ずる心を持つということ、此の『敬と恥』が人を変える一つの原動力になると思っています。之については敬があるから恥があるというふうに言えるもので、人間誰しもが持っている一つの良心と言っても良いかもしれません。
他方で先に挙げた3つの方法、「時間配分を変える」「住む場所を変える」「つきあう人を変える」で、自分を変えることに繋がるか否かは私には分かりません。但し、率直に申し上げて「そう簡単に自分を変えられるのであれば、誰も苦労しないのでは?」という印象を持ちます。
2番目の「住む場所を変える」に関して言いますと、例えば『草枕』の冒頭に次の有名な一節があります――山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
之は漱石の一種の芸術論に繋がって行くのですが、どこに越しても同じだと彼は言っているわけです。私が思うに、人間が変わる上で上記3点に比してより本質となる要素は、時空を越え先哲の書に虚心坦懐に教えを乞うと共に、片一方で毎日の社会生活の中で事上磨錬し、その学びを実践して行くということです。先哲より学んだ事柄を日常生活で日々知行合一的に練って行く中で初めて、人間は段々と変わって行けるものでしかないと思います。
拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)の第3章でも述べた通り、人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、あらゆるものを嘗め尽くすように体験することで知行合一の境地に持って行くことが出来るのです。我々は、そのようにして日々修練し自己修養に勉めて行かねばなりません。




 

『記憶力と創造力』

2017年11月27日 16:35

アルベルト・アインシュタインの言葉に、「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」というのがありますが、私などもこのような考え方をしています。
人間の脳のキャパシティから考えて、何もかも全てを記憶に留めておくのは不可能です。非常に高い記憶力を持つ人がいる一方で、それとは真逆の人もいて、人によりその能力は様々です。しかしながら、そこに限りがあるという点に違いはありません。
従って、何もかもを覚えようとするのでなく、「覚えておくもの、覚えておく必要のないもの」を峻別し、更には今覚えておくことが暫くの間は必要だとか、「長期で必要だと思えるもの、長期では別に必要ないと思えるもの」といった形で記憶した方が良いと思います。
例えば、小学校から中学校そして高校に進学する時に、勉強した内容の多くはその後の日常生活と関係ないものは、忘れるという人が殆どだと思いますが、忘れたからと言ってその後生きて行く上で、何ら困ることはなかったでしょう。
最早、従来のように人間に暗記力・記憶力というものは必要とされていないのではないでしょうか。何でも彼でも正確に覚えねばならないのではなくて、過去の色々な事柄の蓄積から人間社会が繰り返す傾向といった類を認識し、朧(おぼろ)げながら直感力が働いて行き正しい判断がつけば良いのではないでしょうか。
何より大事なことはやはり、より創造性豊かにものを考えることだと思います。勿論、過去の知識や経験等をベースにしながら新しいものが出てくる場合も多いのですが、私としては夢が先にあり、その夢を達成して行く中で革新的な創造が起こるものと思っています。
例えば、「私も空を飛んでみたい」と夢を持ち、鳥が羽を一生懸命バタバタさせているのを見ては、羽を動かすようしたら良いのではと考えて、バタバタ動くものを作ってみるわけです。
そしてその後、空気抵抗を上手く利用したら良いのでは等々と考え抜き改良に改良を重ねて行く中で、段々と飛行機の形態が定まって行ったのでしょうし、そこに技術が生まれてきたのだろうと思います。
嘗て「今日の大学(3)」で私は、「知(ち)を致(いた)すは物(もの)に格(いた)るにあり…良知を極めようとするならば先ず事物の理をきわめなければならない」とツイートしたことがありますが、経験法則的にも様々に理を極めて行きますと、正に此の「格物致知(かくぶつちち)」の世界というのが出来てくるのだと思います。




 
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