北尾吉孝日記

『最高を極める努力』

2019年5月23日 13:40

天台宗の僧侶・堀澤祖門さん曰く、『70年近く行を続けてきたわけだけど、行そのものには終わりはない。ただね、終わりはないけれども、いつまでも「まだまだ」じゃダメ。不安感で覆われてしまうからね。それを断ち切るにはどこかで「よし」という気持ちを持たないといけない』とのことです。
堀澤さんは更に続けられて、『「よし」ということは終わりじゃなくて、自分で納得してまた新たに進んでいくということ。進行形と、ゴールに既に着いているということは同時なの。でも、自分で「よし」と手応えを感じるまでには50~60年かかったな』と言われています。
例えば画家は、「絵を何時何時までに完成して下さい」という注文を受けたら、一回ぐらいは延ばすかもしれませんが、そう度々その期限を延ばすわけには行きません。それゆえ自ずと、その期限内に今自分が出来るベストなところに挑戦するのです。但し、それが完全に自分も満足できるような点かと言うと、必ずしもそうではないかもしれません。
そういうふうに世の事柄には何処かで句切りがあるものです。そして句切りを設けない場合ダラダラになってしまうのは、人間である以上仕方がない部分もあろうかと思います。ですから一旦句切った方が、その間を必死になって集中してやり抜いて、良い結果に繋げることが出来たりもするでしょう。
一たび終わりを決めることで、一つ一つの過程夫々で最高を極める努力をして行くのです。何時まで経っても「いやいや、まだまだ、いや、まだだ」といったようでは、一生が終わりになってしまいます。やはり「人間終わりがある」という覚悟の中で生きて行くことが、今持てる全てを出し切った形での最高傑作に繋がって行くのだろうと思います。
松尾芭蕉が臨終の床にあって、「きのうの発句は今日の辞世、きょうの発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句々、一句として辞世ならざるはなし」(『花屋日記』)と弟子達に言っているのは、芭蕉が死を覚悟して日々真剣に生き切ったということをよく表しています。
人間いつ死ぬか分からない。だから芭蕉は、今日創った句が辞世の句になっても良いという覚悟で以て俳句に向き合っていたのです。そんな芭蕉の本当に最後となった辞世の句、それは「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」というものでした。我々も自分の生を生き切るべく、こうした先人の生き方に学び、時間を惜しんで、日々研鑽し努力し続けねばならないと思います。
一日は一生の縮図であり、一瞬一瞬の積み重ねが一日になり、一日の積み重ねが一ヶ月、一年、一生となります。そう考えれば、有限な時間を一瞬たりとも無駄には出来ません。一つのピリオドを迎える迄、その時その時を死ぬ気になって一生懸命やり抜くのです。そして次のステージではその経験が肥やしとなり、一段高いレベルに自分が到達していることでしょう。人生そうやって時時、最高を極める努力を積み重ねて行くということです。




 

『夢から全てが始まる』

2019年5月17日 15:00

「人間力・仕事力を高めるWEB chichi」に今年2月、「人気作家・浅見帆帆子が明かす好運が長続きしない3つの理由」と題された記事があり、その中で筆者は次の通り言われていました――夢や目標を持つ意味は、それを達成することだけではなくて、半分はその途中で起こる出来事や人との出会いによって自分を成長させることにあるんですよね。夢や目標って達成することにこだわり過ぎると、それに執着してしまって、逆に遠のいていくんです。
上記後半部に関し簡潔に私見を申し上げると、先ず抱いた夢への拘りが執着になるというふうにも思いませんし、況してや夢を持つこと自体を決して否定するべきではないと思います。夢を持つところから全てが始まるとは吉田松陰の至言、夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし――あらゆる事柄は夢から出発するわけで、我々は常に夢を持ち続けねばなりません。夢を持たないことには、理想もなければ計画もなく、実行もなければ成功もないのです。
此の松陰の「夢」というのは、言葉を換えればです。一つの理想を描き、そこに到達するんだといった強い意思をと言っても良いでしょう。志は、野心とは全く違います。志とは利他的なものであって、必ず世のため人のためということが入っていなければなりません。というのもまた、世のため人のためという要素が含まれていなければなりません。そして、その夢が結果において世のため人のためになるならば、大いに夢を抱きその実現を常に強く思い続けて、妥協せず必死になって追求して行ったら良いでしょう。
の実現とは一足飛びに行くわけでなく、それに向かって一歩一歩しかし着実な努力が必要です。それは着実な成果を生むための努力でなければならず、その歩みの一歩一歩が本当に正しいか否かを、ずっと検証して行かねばなりません。そうして、「その道を歩めば目的地に行けるか。もっと近道はないのか」といった反省を繰り返しながら、前に向けての策を真剣に練り続けることが求められるのです。
兎にも角にも、昔から「必要は発明の母」と言われますが、例えば鳥が飛んでいるのを見ては「私も空を飛んでみたい」とを持つことが第一です。これまでの人類の発明・発見というのは、やはり「〇〇をしたい」といった感情が出発点である気がします。そしてその必要性がため、考えに考えた末ふっと閃き、それをヒントにして、また考え抜いて目標を達成してきたのです。
夢が実現するかどうかは天の配剤です。また、夢にも世のため人のためといったことが含まれていなければ意味がありません。それが含まれていない夢は野心と同じです。天はこうした野心のみの夢の実現をサポートしないと思います。世のため人のためになることで夢を持って努力していれば、必ずその夢(志)を共有する仲間やその実現のための支援者が現れてくるでしょう。その意味で浅見さんの前段で言われていることは、その通りだと思います。




 

『真実に徹して生きる』

2019年5月13日 16:15

明治・大正・昭和と生き抜いた知の巨人である森信三先生は、『修身教授録』の中で次のように言われています--人生の真の意義は、その長さにはなくて、実にその深さにあると言ってよいでしょう。ではそのように人生を深く生きるとは、そもそもいかなることを言うのでしょうか。畢寛するにそれは、真実に徹して生きることの深さを言う外ないでしょう。
そして先生はそれに続けて、『孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」とさえ言われています。これ人生の真意義が、その時間的な長さにはなくて、深さに存することをのべた最も典型的な言葉と言ってよいでしょう』と述べておられます。此の「人生を深く生きる」「真実に徹して生きる」とは具体的にはどういうことなのか、ちょっと考察してみましょう。
私は嘗て、『相対観から解脱せよ』(15年1月30日)と題したブログの中で、森先生の次の言葉、「嫉妬については、わたくしは個としてのわれわれ人間が、自己の存立をおびやかされることへの一種の根源的危惧感にその根源的本質はあると考える」を御紹介したことがあります。人間というのは、人の成功は恨めしく思ったり腹立たしく感じたり、といったふうになりがちな動物です。
しかし在るべきは此の妬み・嫉み・嫉妬の類全てを超越でき、例えば人の悲しみを悲しみとして自らも感じるようになり、人の喜びも喜びとして一緒になって喜べるようになるといった形で、人の悲喜を真に分かち合える生き方だと私は考えます。
更に言えば、『論語』に「君子は人の美を成す」(顔淵第十二の十六)という孔子の言があります。人の長所は長所として認め、人の短所は短所として分かった上で、その「人の美」を追求し、益々それが良きものになるよう手伝ってあげようと思えるのが、君子の生き方なのです。そのように、人の悲喜を真に分かち合うに留まらず、他の人の成長を手伝うところまで行ければ最高ですね。
仮にそうした生き方が出来ているとしたら、その人は取りも直さず一つに、中国古典で言う「自得(じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む)」、仏教で言う「見性(けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める)」が出来ているのでしょう。人生を深く生きるためには「自得」が必要条件だと思います。本当の自分が分からずして、真実に徹して生きることは不可能でしょう。『自己を得る』ことが如何に重要であるかは、古今東西を問わず先哲が諭していることであります。
以上より、私流に「人生を深く生きる」「真実に徹して生きる」を端的に解釈すれば、「自得」「見性」を事柄全てにおける出発点とし、妬み・嫉み・嫉妬の類等々ある意味人間に付き物の性癖とも言い得る様々を超越し、そして本来の自分の良心に辿り着き、その良心に恥じぬ生き方を貫き通す、ということになります。




 


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