北尾吉孝日記

『己を修めて人を治む』

2020年11月17日 12:35

「THE21オンライン」で先々月公開された記事、『「会社人生が終わっても、人生は続く」住友銀行の副頭取が選んだ“69歳での起業”』に、大型リチウムイオン電池および蓄電システムの開発・製造・販売を行っているエリーパワーのトップ、吉田博一さんの次の言葉が載っています。
――起業は一人ではできません。色んな人の技術や発想を束ねて、彼らのやる気を高めるには、マネジメントの力が必要です。マネジメントは人の気持ちがわからなければできませんから、経験がモノを言います。40代よりも、50代、60代と歳を重ねるほど有利ではないかと思っています。
そしてまた吉田さん曰く「私たちの社会は、どうしても同質性を求めがちですが、同じような考え方や行動をする人が集まっても、小さくまとまってしまいます。異質で尖った人たちを集めて、それぞれの良さや強みを活かしながら組織の力にしていくのが、マネジメントの役目」ということであります。
上記「マネジメントの力」とは一体何かと私見を申し上げれば、それは一言で一種の調整能力と言っても良いものかもしれません。例えば会社という組織は、年齢的にも経験的にも様々な人々の集まったheterogeneous(異種)な社会です。その組織にあって如何に多種多様な意見等を調整しながら、正反合(ヘーゲルの弁証法における概念の発展の三段階。定立・反定立・総合)の合あるいは正(命題)とも反(反命題)とも分からなくなってしまうが如き解に持って行けるかが、最も大事なマネジメント能力ではないかと思っています。
マネジメント力が仮にそういうものだとすれば、それをどうやって磨いて行くかと言うと、やはり中国古典『大学』にあるように「修己治人(しゅうこちじん)…己を修めて人を治む」ということでしかないのだろうと思います。今年7月のブログ『我を亡ぼす者は我なり』でも述べた通り、「全ての責任を自らに帰す」とは東洋思想の根本です。
之は、「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」(『論語』)、「大人(たいじん)なる者あり。己を正しくして、而(しこう)して、物正しき者なり」(『孟子』)という世界です。全ては身を修めることから出発し、それによって人を感化して、人を動かし世を動かして行く、といったことが所謂マネジメント力に繋がって行くのだろうと思います。
更に、マネジメント力が「40代よりも、50代、60代と歳を重ねるほど有利」というふうには私自身は思っていません。若い人がリーダーになっても、当然良いわけです。但し、その人は一種のバランス感覚及び調整能力を持ち、また人に「なるほどなぁ」と思わせるような力を有する必要性があります。それはもう、あらゆる事柄に対しての弛まぬ勉強でしかありません。教養を身に付け、自分の知恵を磨き、世の中の方向性を敏感に感ずるような先見の明を持つ――そういうことが合わさって、人のリーダーたるに相応しいわけです。
そして一たび人のリーダーとなったらば、持てるマネジメント力を大いに発揮して、一つの方向性を示し、全員を纏め導いて行くことが求められます。それは、年齢の問題ではありません。それは、若い時から己を修め人を治める学問をやってきたかということです。修己治人の学問を倦(う)まず撓(たゆ)まず、ずっと続けて行くことが大事なのです。




 

『偉大とは?』

2020年11月9日 13:55

『プレジデント』(2020年9/4号)に、「ビル・ゲイツ◎自分の才能に目覚めよ! 個人の能力を『最大化』する7つの方法」という記事がありました。筆者はその中で、ビル・ゲイツが「自身の能力を最大化した7つの要因」に、集中力と勝負へのあくなき欲求・「質問力」・知と技術で解決できるという信念・失敗にこそ価値を見出す・「フィードバック」、等を挙げています。
しかし、そうして己の能力を最大化できたとして、その人が果たして偉大な人だと世に思われるでしょうか。偉大とは、世のため人のためにどれだけのことを為したかでしょう。「質問力」などは、こうした観点からすれば「それが有ったからどうなの?」といった程度の話です。
『論語』に、「巧言令色、鮮(すく)なし仁」(陽貨第十七の十七)、あるいは「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」(子路第十三の二十七)とあります。前者は「口先が巧みで角のない表情をする者に、誠実な人間は殆どいない」、後者は「意志が堅固である、果敢である、飾り気がない、慎重である、このような人は仁に近いところにいる」といった意味になります。これら孔子の言からすれば、ビルの上記の論は、全く異質のもので偉大になるためには別の修養が必要でしょう。
真に偉大な人物であるかどうかの判定は、何十年・何百年経ってから為されることでしょう。例えば約2000年前にはキリストが生まれ、その500年程前には孔子や釈迦あるいはソクラテスといった人物が生まれています。これらの人達は、偉大であると言っても余り否定する人はいないと思います。
これら偉人に纏わる古典は、本人による著作ではありません。『論語』は孔子自らが書いたものではなく、釈迦やキリストにおいても伝聞されて行ったものを弟子達が全て纏めました。そうして今日迄ある意味最も人類に影響を与えた「古典中の古典」と言い得る書になっており、今なお世界各国の様々な人々に感銘を与え続けているわけです。こうしたことが、偉大ということでありましょう。
あるいは、こうした思想的な面だけでなく後世の人々が偉大だと考えるのは、例えば世界中で人口に膾炙(かいしゃ)するようなトーマス・エジソンの発明や、ごく普通の人迄もが偉大な発見だと思っているチャールズ・ダーウィンの「進化論」等、発明とか発見とかが対象かもしれません。人類社会の進歩発展に多大なる貢献を果たしたのであれば、それは偉大ということになりましょう。
どれだけの金を儲けたとしても、人々は偉大だとは言いません。財を築いた上で、世のため人のために何を為したかが大事なのです。例えば「金持ちのまま死ぬのは不名誉なことである」との言葉を残した鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、冒頭挙げたビル・ゲイツが範にしている社会的貢献の一つの考え方を打ち出した人物です。
カーネギー曰く、「金が貴いのは、それを正しく得ることが難しいからである。さらに正しく得たものを正しく使うことが難しいからである」、とのことであります。彼のような大人物の名は偉人としてずっと後世に語り継がれる一方で、所謂「成功者」の名の殆どは何れ消えて行くということです。




 

『四を絶つ』

2020年10月29日 16:45

私は前々回のブログ『一番最初に○○する人』で、『顔回の如く修養を積むことで、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」(『論語』雍也第六)、許す位の包容力は持てるのかもしれません。包容力というのは、そういう強さから出てくる部分があるのも確かだと思います』と書きました。そしてそれに続けては、下記のように述べておきました。
――私は、「仁(じん)」の思想の原点に「恕(じょ)」があると考えています。恕とは他人に対する誠実さであり、如(ごと)しに心と書くように「我が心の如く」相手を思うということです。之は、慈愛の情・仁愛の心・惻隠(そくいん)の情と言い換えても良いでしょう。相手の動機や行為等々を理解し受け入れて許す寛大な心を持たなければならないと思います。このような心を持つには、自分を律する強い心が必要なのです。
『論語』の「子罕第九の四」に、「子、四(し)を絶つ。意(い)なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし」とあります。孔子は「私意がない、無理を通すことがない、物事に固執することがない、我を通すことがない」というのが大事だと考えて、「意必固我」を意識的に行わぬよう己を律してきました。
孔子が此の四を絶った理由は、徳をどう磨いて行くかを考えた時、自らに課した解決の仕方ではなかったか、と私は理解しています。そういう修養を積むことで、孔子という非常にバランスのとれた人間が出来上がったわけです。私は、意必固我を排して行こうというのが結局のところ、冒頭挙げた包容力の全てではないかというような気がします。
包容力とは、現代風に言えば、例えば多様性を受け入れて行くことです。人間誰しもが個を確立すると他を受け入れない、といった片一方の極に達します。意必固我に陥っている人は自分の考え方に拘り、自分の考えだけで物事を判断したり、何が何でも必ず自分が決めた通りにやろうとしたりするものです。
実は上に立つ者ほど、此の意必固我に陥り易い傾向にあります。意必固我を押し通せる立場にあり、また押し通すことが強いリーダーシップだと錯覚している人もいるからです。しかし意必固我を捨てられねば、物事の見方が狭く浅く偏った人物になってしまいます。そういう人物は、いわば中庸の対極にあると言えましょう。
もちろん組織において最終決断は、リーダーが一人で下す必要があります。しかしそれは、独裁ではあっても独断であってはいけません。リーダーが己の意必固我から離れ、広く深く偏りなく物事を見ることが出来ないと、正しい決断は困難になるのです。
では如何にして四を絶ち得るのかと言えば、先ず一つに私自身常に心掛けているのが、「思考の三原則」に則って物事を考えるということです。これ即ち一現象において、「枝葉末節ではなく根本を見る」「中長期的な視点を持つ」「多面的に見る」、の三つの側面に拠って物事を考察するのです。此の考え方を身に付けて行けば、意必固我はある程度減ぜられると思います。
そしてもう一つ、四を絶つ上では学問を怠らぬこと、学び続けることが大切です。孔子は、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し…学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」(為政第二の十五)と言っています。また別の章句では、「学べば則ち固ならず」(学而第一の八)とも言っています。学問をすれば、一事柄に執着する頑固者ではなくなるわけです。
学ぶことは、自分がそれまで知らなかった物事の道理や考え方を知ることです。更に言えば、「自分にも知らないものがある」ことを知ることでもあります。それを知った分だけ人は己に謙虚になり、意必固我から遠ざかり得るのです。「学んで」「思うて」己の視野を広め、思考を深めて行く――そうやって一歩一歩、意をなくし、必をなくし、固をなくし、我をなくし、孔子が最高至上とした中庸の徳の境地に近付けたら最高ですね。




 


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