北尾吉孝日記

『母親と京都へ』

2008年12月4日 11:31
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毎年11月末の紅葉のシーズンと3月末頃の桜のシーズンに、神戸で一人いる母親を連れて京都に行くことが恒例になっていますが、今回も無事に行くことができました。この12月で84歳になる母親は段々と足が弱ってきていますので、運転手さんにお願いして、観光客のあまりいない見ごろの場所に連れて行ってもらいました。

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という中国初唐の詩人の劉廷芝(りゅうていし)の有名な漢詩の一節がありますが、中国では毎年咲いてくる桃の花に対し、色々な感慨を持って見られています。桜も紅葉も散ってはいきますが、また一年経てば花を咲かせたり、あるいは綺麗な紅葉を楽しませてくれますが、私の母親は毎年一緒に花を見る度に確実に衰えていっていると感じます。足が段々弱り思うように歩けなくなっていますし、背骨を見ても大分曲がってきました。そのような思いを持ちながら、あと何年これを続けられるのかと一抹の寂しさを感じると共に、来年もまた桜の季節に連れて行ければいいなと、感じています。

自然はまた新しい根を下ろし、葉をつけ、そして花を咲かせますが人間の場合はそのようにはいきません。ただ「永遠の今」という言葉がありますが、2000年を経ているようなお寺で、多分この桜を見るために1000年前も見に来た人がいるでしょうし、あるいはこのような紅葉を愛でる光景は1000年もの間見続けられているでしょう。このような部分がある意味永遠に続いています。

そして、その永遠の悠久の時の流れの中で人間は今ここにこうしています。我々人間はいずれ、生を人間である以上終わらせることになりますが、一方で人間はホモサピエンスが生まれてから今日まで約10万年もの間、人口増加を続けながら生をつないできました。自然の偉大さを感じると共に、人間の儚さとある意味での「造化(万物の創造主であり神であり天)」の素晴らしさに改めて心を打たれました。

今回母親を京都に連れて行き、このようなことを思いました。




 

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