北尾吉孝日記

『個人と大衆』

2010年12月6日 16:03
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今週土曜日開催の「これからの時代の経営者に求められる人間学とは」と題したセミナーで私は基調講演をする予定です。
今回は「次世代リーダーと人間学」というタイトルでのスピーチとなりますが、これは経営者に限った話というものではなく、正に社会のエリート全てが身に付けねばならないことであると私は認識しています。
私が言うエリートとは決して傲慢や自惚れというような世界で述べているのではなく、以前ブログで指摘した通り、凡そこの社会の変革、進歩をもたらす主体、あるいは文明、文化を作る主体は大衆ではなく、常に一握りの個人によってなされているわけで、そのような意味でエリートと述べているのです。

私は昔から明治維新前夜の群像について興味を持っていましたが、例えば先日最終回を迎えた『龍馬伝』を見ても分かるように、やはり個人の偉大さというものを認識する必要があると思っています。
あの社会変革、即ち明治維新という無血革命の偉業も坂本龍馬一人というわけではありませんが、坂本龍馬や勝海舟、あるいは西郷隆盛、吉田松陰といった少数者により齎されたわけで、そのような意味では本当に一握りの人達がこの世の中を動かしたということです。
上述したような意味において時代の変革者は一握りのエリートであるというわけですが、このことに関して上記セミナーで話そうと考えている偉人の言葉を今回は幾つか紹介したいと思います。

まずはスペインの哲学者・文明評論家、ホセ・オルテガ・イ・ガセトという人物の『大衆の叛逆』という本の中にある言葉です。

「今日大衆の勝利がもっとも高度に達している諸国家を吟味してみると、驚くべきことに、その国の人々は政治的にはただその日暮らしをしていることが明らかになる。この政治の中では、未来はまったく予知されておらない。(中略)
大衆が社会的権力を直接行使する場合には、権力は古来いつでもこのような性質を帯びてきた。そもそも大衆は目標なく生き、風のまにまに動く人間であるからだ」

要するにワイドショーやメロドラマ等々、朝から晩までくだらないテレビ番組をぼーっと見ているだけの人間には何ら社会を変革することは出来ないということです。
安岡正篤先生は「社会の動きの中に、きわめて微妙な少数者、個人を通じて良心的な動きというものが生まれてきて、それが次第に体制を変革していく(=維新)。これはなかなか目に見えない変化であるが世の中の変化の前提である」というように述べていますが(安岡正篤講和録『人間の本質』)、これまであらゆる革命は長年続けてきた生活を同じように続けて行くことしか考えない大衆と称される人ではなく、本当に一握りの個人によって安岡先生が言うような形で起こされてきたわけです。

また文化の維新と個人の関係について、ノーベル平和賞受賞者(1952年)のアルベルト・シュバイツァーは『文化の衰退と再建』という本の中で次のように述べています。

「文化の維新は、大衆運動の性格をもつ運動とは何ら関係がない。(中略)逆に文化は、多くの個人のうちに、現に支配している全体的趨向とは独立に、あるいはそれに対立して、ひとつの新しい志向が生まれ、これが次第に全体感情の上に影響を及ぼし、ついにはそれを決定することによってのみ、再び対立することが出来るのである。倫理的運動のみが我々を非文化から救い出すことが出来るが、倫理的なるものは、ただ個人のうちにのみ出現するのである」

私が人間維新、人間学というように発信し続けている理由は正に上述したところあるわけで、やはり我々人間はまずは自らを変え、それから人を感化し、そして「一燈照隅、万燈照国」と持って行くことで初めて世の中は変わって行くということです。
例えば『龍馬伝』最終回には、大政奉還を成し遂げて嬉々とする坂本龍馬の一方で「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂う無知蒙昧な大衆を描写したある意味象徴的とも言えるシーンがありましたが、あれこそ個人と大衆というものが正に対照的であるということを示しているわけです。
世の中というのはそのようなものであるが故に、やはり大衆になるということではなく、世を変革するような人物になるべく、そのような志を持たなければならないのです。
我々のインターネットの世界一つを見てみても、やはりそこには「これは凄い」とか「これはこうして使えば良いんだよ」というように口コミするアーリーユーザーというような一握りの人達が必ずいて、彼らが皆を引っ張って行くことで一般的に広まって行くというような側面がありますが、正に大衆というものは一つの流行が出来上がってからそれに乗っかるだけの存在であるということです。

そして個人と大衆ということに関しては、上述の安岡先生が『知名と立命』という本の中で次のように述べています。

「人類一切の進歩とか文明・文化というものは、これは人が人の内面生活に返る-自分が自分に返る-という、したがってどうしても個人個人の心を通じて初めて発達するのである。言い換えれば、個人の偉大さというものの上に、社会のあるいは人類の一切がかかっているのである」

考えて見ますと、例えば先日ブログで述べたALA(5-アミノレブリン酸の略称)について言えば、医学の常識を変えるかもしれないようなノーベル賞級の世界的大発明となる可能性を秘めたものとも言えるわけですが、それはあの田中徹という人物の20数年に及ぶ研究の上に全てが拠って立っていると言っても過言ではないわけです(※1)。
それに加えて「植物に対してポジティブな影響を齎すものが動物に対して良い効果がないはずはない」「これはビジネスになる」というような私の直感的閃きによってその可能性が格段に広げられたという部分もあるわけで、つまり物事というものはずっと求めて止まぬ何者かの力によって成就されて行くということなのです。
それは最早個人でしかなく、その個人の閃きでしかないわけで、ノーベル賞受賞者も皆そのようにしてきた一方で大衆と称される人達からは何も生まれてこないのです。
身近な例で飛行機について考えますと、飛んでいる鳥を見て「あー、私も飛べたら良いな」と思いながら毎日空を眺めているだけではダメであって、飛びたいならばグライダーを作って挑戦しようと発想するライト兄弟のような人間が出て来て初めて飛行機が現実味を帯びてくるわけで、そのような意味で全ては個人の力に拠るものと言えるのです。

最後に上記シュバイツァー博士の『わが生活の思想』という本にある言葉を紹介します。

「愚劣な議論によって常に主張されるほど、人間性は物質的なものでは断じてない。人間の内には表面に現れるより遥かに多くの理想的意欲が存する。縛られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと-この一事を成就すべき人間を人類は待ち焦がれているのである」

SBIグループの新卒採用では全て私が最終面接を行うのですが、そこで「心に感銘を受けるような本は今までにありましたか」と質問をすると、近年は「よくもそんなくだらない本に感銘を受けたなぁ」というような本か、あるいは殆ど読書はしていないというような回答が返ってくる状況で私は非常に残念に思っています。
やはり学生は上述したような本を読んで日々勉強し、「崇高な理想を持った、世の中で本当に一握りの人物に自分はなるんだ」と心を決め、それをもって「では、そのためにはどうすれば良いのか」というように考えるようでなくてはダメですし、このことは勿論学生に限ったことではないのは言うまでもありません。

以上、個人と大衆というものについて様々なことを述べてきましたが、今日本という国に変革が求められる中で、今回のセミナーでは「どのような人間がその変革に必要とされているのか」、あるいは「その変革のリーダー足る人物をどのようにして作って行くのか」、あるいは「今後日本という国が世界の中でどのようなことを民族的使命として果たして行かなければならないのか」といった問題に対して日本が生んだ2人の碩学、即ち安岡正篤と森信三という人物がどのように向き合ったのかについて更に話して行きたいと思っています。
偶然にも両者共21世紀というものを見据えながら逝去されたわけで、そのような知の巨星達が、21世紀日本は一体どのようにあるべきか、そしてまた世界全体が21世紀においてどのように変わって行かなければならないのか、というようなことをどう洞察したのかについて当日は述べたいというように考えています。

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今後の医学の流れに関する私の考え方

参考
※1:「神様からの宿題」~無限の可能性を秘めた“ALA”にかける男達~





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  1. いつも、興味深く拝読させていただいております。

    北尾様がおっしゃる通り、日本ではエリートという言葉が誤用されているようです。

    エリートの語源は、ギリシア神話に登場する死後の楽園、エリュシオンとされ、エリートはもともとラテン語で「神に選ばれた者」のことを指すようです。

    神に選ばれるというのはキリストに代表されるように、他人のために死ぬ用意ができているということであり「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」を意味します。

    ラテン語でのエリートとは「人」について使う言葉であって、地位や階級に使う言葉ではないので、日本での使われているエリートは、間違った意味で使われていますね。

    国を憂う国民が、一人でも多く増えることが、日本の維新を成し遂げるための一歩のような気がします。



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