北尾吉孝日記

『21世紀に対する洞察2』

2011年1月27日 11:07
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先週『21世紀に対する洞察』と題したブログを書きましたが、今回はこのテーマについて更に掘り下げてみたいと思います。

私のところには、例えば「欧州経済が日本に齎す影響について」や「TPPによる開国が日本に齎すものとは」といった類のテーマに関する取材依頼が多数ありますが、そもそも欧州経済など日本に対して大して影響はありませんし、何よりも今は個別経済に対する考察を具体的に行うというよりも、まずは21世紀というものを総括する必要性があるのではないかと私は考えています。
要するに21世紀になって一番議論しなければならないことは何なのかと言うことであり、私に言わせれば、例えば「日本はこの変わり行く世界においてどうすべきか」とか、あるいは「日本民族として21世紀に何を為すべきか」といったことに焦点を当てたテーマ設定を行うべきであろうと思っています。

その観点から言えば、まずは20世紀と21世紀というものの分岐点ということで述べますと、2008年9月以前から21世紀という時代へと既に動いて行ってはいたわけですが、それを徹底的に分けることになった21世紀の象徴的出来事こそが「リーマンショック」であると私は認識しています。
昨年12月の『今年の10大ニュースと来年以降の最重要問題について』と題したブログでも下記の通り述べましたが、現在世界が直面している諸々の問題の根底には常に「リーマンショック」という根本的問題があり、21世紀という社会があのリーマンショック以後にどう変貌を遂げたのかについて今こそ考えてみるべきだと思っています。

【上述したこともあって今回一番大きな変化と考えられるのは、やはり米国の政治・経済・軍事に対する力が著しく低下し、その結果としてドルの信認が失われ、そしてある意味ドルを基軸通貨とするパックス・アメリカーナの終焉に向けた序章の始まりと定義されるようなことが起こっているということです。
私は2年程前に『パックス・アメリカーナの終焉に向けた序章か』と題したブログを書きましたが、現況はそれが未だ続いている段階であり、上記トップ10は正にそこから派生してくるある意味当然の帰結とも言えるわけです。
(中略)そして、その米国の凋落と裏腹にあるのがエマージングカントリーの躍進ということで、「中国の隆盛」(上記特集記事第8位)とあるように中国を筆頭として相対的にそのような国の興隆が促されて行くわけです。
それ故以前ブログで述べた通り、世界はG8からG20へと多極化してきたわけで、そのような意味では言い方を変えれば、米国一極集中という時代は既に終焉を迎えたということです。
従って、今後は益々エマージングカントリー、取り分けBRICsと呼ばれる国々の力というものがグローバルに見ても相対的に強くなってくるという趨勢があるように思いますが、それこそがこの2010年に見えた一つの際立った特徴であったと私は認識しています。
中国は「リーマンショック」後、4兆元の内需刺激策等の様々な施策を矢継ぎ早に打ち出し内需拡大に力を入れる等して高成長を維持してくる中で(2008年:9.6%、2009年:9.1%、2010年予測:10.5%、2011年予測:9.6%-)(※1)、益々自信を深め世界におけるプレゼンスを向上させています。
つまり今世界で何が起こっているのかについて私なりの分析を端的に述べますと、BRICs、取り分け中国の台頭というものが生じる一方で、その対立関係として米国の相対的地位の低下が起こっており、それを象徴するのがドルの独歩安やドルの信認低下といったものであるということです。】

上記『21世紀に対する洞察』でも述べましたが、20世紀から21世紀に入るというのは、即ち米国一極集中支配の世界から多極化した世界へ移って行くことであり、また「リーマンショック」とは、言わば20世紀体制の終焉、私の表現を使うならば、パックス・アメリカーナの終焉、ドル基軸通貨体制の終焉、そして主要8ヶ国首脳会議(G8:Group of Eight)の終焉というものを象徴する一つの出来事であるということなのです。
従って、まずはこのような観点からの議論を前面に打ち出して行くべきであると考えており、その文脈の中で例えば「ブラジルやアフリカと日本はどう向き合うべきか」については当該地域だけではなく全世界とどう向き合うのかという観点から論じられるべきテーマとなりますし、あるいは「日本の財政問題は良い方向に向かってきたか」や「日本に新たな産業・企業を起こすための施策とは」といったテーマを扱う場合も21世紀論を土台として議論を進めるべきではないかというように私は思っています。
また一例として現在スイスで開かれている「ダボス会議」について言えば(※2)、私はダボス会議のメンバーですから、そこでどのような議論を行うべきかを話し合う日本での会議に参加したわけですが、私は上述したような21世紀というものに関する議論を展開することこそが正にダボス会議の役割であるというように主張してきたというわけです。

今21世紀に向かうこの一つの過渡期という中で21世紀の特性とは一体何なのかを更に考えますと、上記「多極化」に加え『21世紀に対する洞察』の中でも指摘した下記事柄が挙げられると言えましょう。

【21世紀というのは、言ってみれば西洋一辺倒の価値観が支配する世界から非常に多様化した価値観が混在する世界に移って行くような世紀になると私は思っています。
その多様化した価値観の中には、中国的なものやインド的なもの、あるいはイスラミックの価値観やブラジルの価値観等々、種々雑多なものがあるでしょう。
そうした多様な価値観というところに21世紀の大きな特色があるというように見ています。
またあらゆる情報が世界中を駆け巡るグローバリズムとも言うべき時代において、その情報を誰が逸早く手に入れ、そしてその情報を誰がどのように分析し行動するのかにより勝敗が決するような世紀でもあると認識しています。
更には、例えば金融政策一つを考えてみても、今や一国だけではなく世界的な協調体制の下で各国がどのような政策を実施すべきかを議論しなければならない時代に変わってきているわけで、そのような意味ではピーター・ドラッカーなども言うようにあらゆることが国境を超えるという「トランスナショナル」というようなことが21世紀の一つの特徴になっていると考えられます。】

これまで人類は特に西洋文明の影響により、自然をコントロールするという立場や機械文明を最優先するという立場に立って、生産力の増強、あるいは所得水準の向上というようなことばかりを追求するようになってきました。
今日、例えば地球温暖化あるいは森林伐採による生物多様性の破壊といったことが世界的問題となっているわけですが、それはある面で西洋文明の考え方を推し進めた結果として起こってきたものと言えることは、『地球環境危機下で希求せられる東洋の自然観』と題したブログで述べた通りです。
上記問題に関する時代的相違という観点から言えば、嘗ては世界の中で日本だけが高度成長を遂げており、当時の公害問題は国内的大問題にはなりましたが世界的問題にはなりませんでした。
しかしながら今はBRICsを筆頭とした規模の大きい国々が正に同時的にTake Offを迎え高度成長を遂げて行っているわけで、今や自然環境及び生物多様性の破壊や地球温暖化といった問題が世界的問題となっており、地球というもの自体が非常に危険な状態に陥るかもしれないような状況になっているのです。

結局昔は例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ、親鸞、最澄といった何から何まで全てにおける天才という人物がおり、ある意味空海などは特にそのような天才であったと思われますが、今やそのような人材は全く見当たりません。
この20世紀型の欧米を中心とした西洋文明というものは物事を全体として把握するのではなく部分的に取り出し、しかもその部分だけを更に細分化し非常に限られたところだけを極めて行くというような世界であり、統一的・統合的に物事を捉える東洋の世界とは全く違ったものです。
そのような西洋文明が人類における支配的趨勢となって行く中で、遂には「木を見て森を見ず」の世界になって行ってしまったわけです。
上述した問題点については、以前も『今後の医学の流れに関する私の考え方』と題したブログで指摘していますので下記ご紹介しておきます。

【更に最近色々な書物を読み医学との関連で思ったことは、西洋医学というものを今一度考え直さなければならないのではないかということです。
現代医学というものは西洋医学の中で余りにも要素還元的になっており、例えば目が悪いと言えば眼科に行き、胃が痛いと言えば胃腸科に行き、そして頭が痛いと言えば脳神経外科医に行くというような具合ですが、そもそも身体というものは全体として一つのバランス、平衡を維持し動いているわけで中医学における脈診のような世界であります。
そのような部分を完全に捨て去る形で現代医学というものがあるわけで、私は本当にそれで良いのであろうかというように思ってきているわけです。
特に病に関して言えば、東洋医学では病気というように「気」という字を入れますが、西洋医学では恐らく疾病という世界しかないと思われます。
即ち東洋医学は心と身体のアンバランスが病気の元であるとし、それが一体化して全一性を持っているのが人間の身体であり、人間はそのような全一性をきちっと維持して初めて健康になるという心身相即的存在なのです。
これに関して昔は「健全な精神は健全な肉体に宿る」というような心身相即的なものを西洋でも言っていたわけですが、今やこのことを完全に忘れてしまっているのではないかと私は思っています。】

このように昔は脈一つで病気の80%程度が判明するというような世界がありました。
しかし最近では聴診器を当ててみても、腹部を押してみても十分な診察とはならず、何もかもが検査となって「CT(Computed Tomography)を撮りなさい」「MRI(Magnetic Resonance Imaging)を撮りなさい」「PET(Positron Emission Tomography)を撮りなさい」というような具合であるわけですが、果たしてそれで本当に良いのでしょうか。
更に言うならば、医師は無闇矢鱈に薬を処方するわけですが、薬はある意味全て有害な物質であります。
例えばALA(5-アミノレブリン酸の略称)のように「36億年前の原始の地球に生まれ、生命の誕生に関与した生命の根源物質」とも言われ、「動植物の生体内に含まれるアミノ酸の一種であり、エネルギー生産において非常に重要な役割を果たす葉緑素(クロロフィル)や血液中のヘモグロビンの原料となるアミノ酸」から作られるものを服用するならば話は別ですが(※3)、体外のモノから作られるということであれば、その殆どは害でしかないわけです。

西洋医学を例にした上記考え方は現代日本にも当て嵌まると考えており、そのように害ある薬を飲んでみても、それは対処療法でしかないわけで、最早西洋文明の全てが限界点に到達しているというように私は認識しています。
西洋文明の限界ということで言えば、ドイツの文化哲学者・歴史学者、オスヴァルト・シュペングラーが『西洋の没落』という本の中で次のように述べています。

「文明の象徴は世界都市であり、それは自由な知性の容器である。それは母なる大地から完全に離反し、あらゆる伝統的文化形態から解放されたもっとも人工的な場所であり、実用と経済的目的だけのために数学的に設計された巨像である。ここに流通する貨幣は、現実的なものにいっさい制約されることのない形式的・抽象的・知的な力であり、どのような形であれ文明を支配する。ここに群集する人間は、故郷をもたない頭脳的流浪民、すなわち文明人であり、高層の賃貸長屋のなかでみじめに眠る。彼らは日常的労働の知的緊張をスポーツ、快楽、賭博という別の緊張によって解消する。このように大地を離れ極度に強化された知的生活からは不妊の現象が生じる。人口の減少が数百年にわたって続き、世界都市は廃墟となる。知性は空洞化した民主主義とともに破壊され、無制限の戦争をともなって文明は崩壊する。経済が思想(宗教、政治)を支配した末、西洋文明は21世紀で滅びるのである」

また森先生は『森信三全集続編第五巻』の中で西洋文明の極限と東洋文化への回帰について次のように述べています。

「「無我」を根底におく東洋文化の根本性格は、自己否定、ないしは自己抑制を原理とするものといってよいでしょう。随って問題は、端的に申せば、自然科学を中心とする西洋文明が、今やその拡大化の極限に達したために、その抑止の原理を、「無我」を基本とする東洋文化への回帰によって、発見する他ない処まで来たといってよいでしょう」

このように西洋文明のある種の限界が明瞭となってくる中、上述した様々な特性を帯びる21世紀という時代において、我々日本人はこの世界の中で一体どのように生きて行くべきなのでしょうか。
これについては拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)の第5章「世界に果たす日本の使命」からの抜粋を中心に森先生の言葉も引用する形で以下述べて行きたいと思います。

【人に人命があるように、国には国命があると私は思います。国命とは、その国の中にいる国民が総体として受けている命であって、それは日本人なら日本人の歴史と伝統の中に語られているはずのものです。それをベースにしながら、日本人の特性をわきまえて、今、世界のために何ができるのかを考えていくべきだと思うのです。
その観点からいえば、日本が現在の停滞した状況から抜け出し、復活を遂げるためには、かつて日本人が持っていたナショナルアイデンティティがいかなるものであったかということを、すなわち日本文化と日本国民の特質とは何かということを、もう一度原点に立ち返って調べる必要があるでしょう。
今はそのようにして歴史・伝統を振り返りながらこの国のナショナルアイデンティティを再確認し、それをよく見極めた上で現在の状況をよくつかみ、国家の方針を構築する、そしてその向こうに日本の目指す国益(ナショナルインタレスト)を明確にするべき時期なのです。表現を変えて言うならば、まさに百年の計をつくるべき時期に来ているのではないかと思うのです。】

安岡先生はずっと歴史を遡って日本人のルーツを探り、日本人が伝統的に持ってきた国民性、即ちナショナルアイデンティティを究明し続けてこられました。
そういうものを見極めた上で、未来に向けて日本はどうあるべきかと提言されています。
日本が世界から尊敬される国になろうとするならば、日本人としての特質を益々磨いて、その点で評価されなければ意味がないのです。
以前私も『世界から尊敬される日本人とは何か』というタイトルのブログを書きましたが、安岡先生は世界からの評価を得るべく日本人の持つ非常に素晴らしい特性を磨くべきであると繰り返し説かれてきました。
そのような日本精神の研究を行い纏められたのが『日本精神の研究』と『日本精神通義』であり、両著の中で安岡先生は昭和を代表する一つのナショナリズム論を説いておられます。

【ナショナリズムといった場合には三つの側面があります。一つはナショナルトラディション、国民的伝統です。二つにはナショナルインタレスト、国民的利益すなわち国益です。そして三つにはナショナルミッション、国民的使命(観)です。この三つが合わさったものが、ナショナルアイデンティティ、すなわちその国の国民が共通して持つ基盤となる自己認識です。本来ナショナルアイデンティティはこうした三つの側面からきちんと確立されるべきものなのです。
『日本精神の研究』及び『日本精神通義』の二書を通じて、安岡先生はこれら三つの側面およびナショナルアイデンティティについて詳細に評論を重ね、具体例を挙げながら、大正末期から昭和初期にかけて混迷する我が国に明確な進路を提示しています。と同時に、涵養・振作すべき国民精神の神髄を提唱されたのです。】

このように日本がその歴史と伝統の上にどのような国民性・特質を持っているのかということを明らかにし、ナショナルアイデンティティ(ナショナリズムの中核)を確立しながら、21世紀日本がこの世界の中でどのように生きて行くべきかということを考えることが今こそ必要ではないかと私は強く思っています。

では、その日本文化の特質というものを安岡先生はどのように捉えられていたのでしょうか。
安岡先生は『日本精神通義』の中で次のように述べておられます。

「日本精神は、山鹿素行先生が『中朝事実』の後にちゃんと論じているように、異民族文化を自由に摂取して、そして、これを日本化する上において天縦の神聖をそなえている」

【天縦の神聖という言葉が出てきます。これは天から許された非常に尊いものを指しています。天縦とは、中国の言葉では「鼎新」といいます。これは鼎(三本脚の鉄製の釜)にいろいろな食材を入れて、煮込んで一つの料理にするように、自由にものを包容して、そこから新たなものを創造することを意味しています。
すなわち日本の文化史・精神史を総括すると、外来文化の受容と変容を通して固有の民族文化を形成してきたと言っているのです。
たとえば日本に元々あった神道に儒教や仏教といった外来の思想・宗教が入ってくると、日本人はそれらを受容して、より高い次元に発展させていきました。そして、その最終型が武士道というものに繋がっていくわけです。これはまさに「和」の魂です。新しいものを海外から取り入れても、それに染まるのではなく、その中から役に立つものだけを吸収し、伝統的な精神の上に発展させて新たな文化を作り上げる。そのようにして発展を続けたのが日本という国だったのです。
安岡先生も一貫して「和魂漢才」「和魂洋才」を貫かれていますが、その「和」の魂が今日本から失われているのではないかと私は危惧するものです。
日本は昔から外来文化を積極的に受容する国際化の時代(飛鳥・白鳳・天平の唐風文化の時代など)と、受容した外来文化を在来の文化と融合し変容する国粋化の時代(平安時代の国風文化など)を繰り返してきました。その中で外来文化と在来文化の融合・調和を進め、優れた民族文化・日本文明を形成してきました。】

このように日本には極めて迅速に且つ主体的に外来文化を受容し変容してきた歴史があるわけで、それがナショナルトラディション(国民的伝統)となっているのです。
こうした日本民族の特性について、安岡先生は『人生の大則』の中で次のように述べておられます。

「キリスト教民族、回教(イスラム教)民族、その他どの民族でも、思想とか信仰とかいうものになると、恐ろしく排他的です。闘諍堅固です。しかるに日本民族は、飲食住居と同じように、あらゆる思想信仰を自由自在に取り入れてきました。儒教結構、仏教結構、もちろん好悪や衝突はありますけれども、なんでも包容・熔鋳してきました。マルキシズムでも、アナーキズムでも、なんでもござれです。そういう和魂、これはちょっとどこの国民にもない。(中略)だから日本民族こそ指導よろしきを得れば本当に世界国家を開ける民族なのです。それだけに思想や信仰というものをよほど吟味し精錬しなければいけない」

また同じように森先生が日本民族をどう捉えられていたのかについては、『森信三全集続篇』(全8巻)に書かれている次の言葉をご紹介しておきます。

「従来の日本文化論は、いわゆる侘びとか寂びとかいうように、いわば美的な面を重視し、ある意味では片寄ったともいえる文化論が多く、民族生命の生理的基盤の考察は、まだ充分に取り上げられずに来たと言えるであろう。だが、実は民族の根底に流れているこのような異民族の「血」の渾融化に根ざした民族の根源的エネルギーこそ、実は日本文化論における根本的な核心と言うべきではあるまいか」(全集続編第四巻)

「民族の一ばん根底を流れているものは、いわゆる「神ながら」の名で呼ばれているものでありまして、これは何ら自らの教学としてのわくを持たない「民族生命の原始無限流動」ともいうべきものなのであります。随ってそれは、何ら固定した自らの思想体系をもっていないために、かえってあらゆる他の思想をうけ容れて、その精髄を摂取しつつ、いつしか自己のものに消化する根本的な作用であります」(全集続編第五巻)

では、日本民族が本来の精神と使命を回復するためには何が必要なのでしょうか。
安岡先生は上述の『人生の大則』で次のように述べられています。

「文化というものはヨーロッパに限るというように錯覚し、またヨーロッパ人もそう論ずる。そういうところから自分の本領を忘れて追随していった。(中略)あまりに主知的に功利的に、物質的に走りすぎている。それを中和しなければならぬ。そういうことを考えてくると、我々の新しい世界文明というものは、ちょうど我々が本領として持っておる精神・能力、それを根底として、それに今まで発展してきた西洋の文化、彼らの本領を接ぎ木として、初めて全きものになるということを知るのである。そうすると世界文明というものの創造に我々の占めるべき地位・立場・使命がはっきりする」

安岡先生の日本民族の国民的使命に関する記述を読みますと改めて先生の慧眼に感服するわけですが、これについては森先生もまた『森信三全集続編第四巻』の中で次のように述べられています。

「われらの民族の使命はいかなるものと言うべきであろうか。それは端的には、人類がその遥かなる未来において、何時かは成就するであろうところの、東西文化の融合という究竟目標に対して、一つの縮図を提供すること、少なくともそのために一つの「架橋」になることこそ、われらの民族に課せられた、おそらくは唯一にして、かつ最大の使命と言うべきであろう」

東西文化の融合という究極目標に対して一つの縮図を提供すること。「縮図」という言い方は特徴的です。これは日本の過去の歴史を踏まえて使っている言葉といえるでしょう。即ち、日本は世界のあらゆる文化を全部取り込んできたという点で、縮図なのだと言っているのです。
これは内村鑑三の『地人論』にも同じような話が書いてありましたが、東西文化を融合して行くということがグローバリズムの必然的な結果となるのです。そして、東西文化を融合することを世界で最も上手くやってきた民族が日本人なのです。そうした歴史をもって、日本民族は東西文化融合の「縮図」を提供することが出来ると言い、東西文化の「架橋」になれると言っているのです。それを唯一最大の使命にするべきであると言っているのです。

「われらの民族は、世界の有色人種の間にあって、高度に西洋文明を消化した最初の民族と言ってよいであろう。それゆえ今後世界における東西文明の歩み寄りに対して、いわば水先案内的な役割を演じるには、これら両種の文明に対して、ほぼ同程度にこれを消化していることを必須条件とするわけであるが、しかもそのような資格を具えているのは、結局われらの民族の他にはないようである」

「世界の有色人種の間にあって、高度に西洋文明を消化した最初の民族」だから縮図なのだということです。だからこそ東西文明が歩み寄るための水先案内人になれるのだというわけです。

以下、上述したことを踏まえた上で個別具体的な議論に入りますと、例えばこれまで保護主義的であった貿易について言えば、今や世の趨勢は自由貿易であり色々な連合体を創って行く世界になっているわけで、以前私が基本的な考え方を示した環太平洋戦略的経済連携協定(TPP:Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)に関して、日本が今後も保護主義的な対応に終始するということであれば、確実に世界から取り残されて行くことになるでしょう。
即ち、20世紀的な保護主義などというものは21世紀においては最早通用しないわけで、誤った時代認識に基づく舵取りではグローバリズムの中で生きて行くのは不可能であるということです。
TPPとは歴史的に捉えると第三の開放であり、しかも主体的開放というように私は認識しています。
第一の開放とは明治維新です。
これは日本という国が一つに纏って他国の侵略を阻んで行くということ、そして更に日本という国を西洋列強に負けないような国にして行くということで、日本国民が自ら立ち上がり、一丸となって推進した主体的な開放でありました。
第二の開放とは敗戦です。
これは敗戦国日本に対してマッカーサーが占領政策「3R5D3S政策」に則り、様々な日本弱体化政策を実施してきたことによる戦後日本の開放のことです。
上記「3R5D3S政策」が何かと言えば、3Rの「Revenge(復讐)、Reform(改組)、Revive(復活)」、具体的には「Dis-armament(武装解体)、De-militarization(軍国主義の排除)、De-centralization(中央集権の排除)、Dis-industrialization(工業力の排除)、Democratization(デモクラシー)」という5Dを推進するために3Sの「Sex、Screen(映画・テレビ)、Sport」を解放・奨励することであり、これは押し付けられた非主体的開放であったと言えます。
そして今日本として、まずはTPPという枠組みにおいて第三の開放に向け動き出さなければならないわけで、その第三の開放というものはあくまでも主体的開放でなければならないことは言うまでもありません。
従って、その意味でも日本民族はその主体性の確立を強く要請されていると言えますし、戦後60数年を経た今、日本国憲法についても果たして現行のままで本当に良いのかということをもう一度考え直してみる必要性があるというように私は思います。
例えば同じ敗戦国のドイツは独立後自らの憲法を主体的に創ったわけで、日本は押し付けられた現行憲法を今後も後生大事に守り続けて行くのかということです。
昨年10月、私は「尖閣問題」に関し下記のように呟きましたが、領土問題、日米関係といった日本を取り巻く安全保障環境というものが大きく変化してきている中で、今正に国防というものを日本人全体が再考しなければならないのではないかと考えています。

『「尖閣問題」に関する報道を見ていて「一剣を持して起つ」という言葉を思い出しました。こうした宮本武蔵の境涯に到って、人間は初めて真に卓立し、絶対の主体が立つという事で、要は甘え心やもたれ心があっては駄目だという事です。言葉を変えれば「独立自尊」という事だと思います。』(※4)
『これは国の場合でも勿論同じで、一国の安全や防衛を他国に依存しているが故に、阿たり、諂ったり、媚びたりするのです。そのような甘え心やもたれ心を人においても、国においても一切無くす事が非常に大事であると思います。いずれ憲法改正も必要になってくるでしょう。』(※5)

以前『「北朝鮮砲撃事件」と日本国防再考論』と題したブログで述べた通り、日本という国、そしてその文化、伝統、歴史を守って行くのは日本人しかないと考えており、やはり自分の国は自分で守るというような気概が必要ではないかと強く感じています。

最後に日本の教育という観点からも述べますと、あの受験勉強だけを主体にして人間教育を全く行わない教育、即ち戦後マッカーサーに押し付けられた教育を今後も継続して行くことが本当に良いのかについても再考しなくてはならないでしょう。
私は一昨年のこの時期に『君子を目指せ小人になるな』というタイトルのブログを書きましたが、その中で上述の問題について下記の通り指摘しています。

【戦後六十余年を経て、現在の日本は政治、経済に限らず色々な面で危機的様相に陥ってしまいました。何故こうなってしまったかと言えば、以前から一貫して申し上げている通り、私はマッカーサー占領軍の日本弱体化政策すなわち一切の歴史・伝統や精神的なもの、日本的なものを排除していこうという政策が大成功した結果であると考えています。近年は親殺し、子殺し、児童虐待、老人虐待、自殺の増加といった新しいタイプの社会問題も顕在化してきていますが、現在の日本社会が抱えている様々な問題の根本原因は、戦後日本の教育にあると私は考えています。
戦後の教育には、道徳的見識を育てる人間学という学問が欠落していました。今日の若者に、日本の高等教育で戦後軽視されてきた古典的教養を身に付けさせることは、人間と人世の実践的原理・原則を学ぶ上で不可欠であると思います。従って、我々は国を挙げて道徳教育を主眼とした人物の養成に取り組まねばなりませんし、また戦後教育にどっぷり漬かった若者達は人間学の学習と知行合一的な修養により自己人物を練らねばなりません。そして精神・道徳・人間の内的革命を遂行し、『君子』への道に確かな一歩を踏み出していかねばなりません。】

また上記『安岡正篤ノート』第5章においても、日本の戦前戦後の教育というものについて次のように述べています。

【日本はどのようにして戦後の廃墟から立ち上がり、世界第二位の経済大国になれたのでしょうか。それは戦前の教育を受けてきた人たち、あるいは戦争中は子供であったけれど親から教育を受けてきた人たちが、日本に独特の武士道に根差した伝統的精神を受け継ぎながら勤勉に努力した結果として得られたものです。まさに精神の力によって成し遂げた成果なのです。
さらに遡って、日本がなぜ明治維新から第二次世界大戦に至るまで、世界が驚くような発展を遂げて列強に並ぶような状況を実現したかといえば、そこにも精神の力があったからだと私は考えています。
ところが第二次大戦後、進駐軍司令官として日本にやってきたダグラス・マッカーサーは、その日本人の精神の力、武士道に根差した精神の力を根本的に破壊しようと計画しました。そして、その計画は戦後の教育を通して着実に実行されてきました。それが今日の日本人の精神的・道徳的退廃を招いたといっても間違いではないでしょう。】

【中国古典の『管子』の中に、国家を維持するために大切な四つの事柄が挙げられています。それは礼・義・廉・恥の四つで、それを「四維」といいます。管子はこれらの四つの事柄が欠けると国家は傾くと指摘しています。
現在の日本の退廃も、この四維に示された通りだと言っていいでしょう。他人に対する礼が失われ、人間として正義があやふやになり、無分別な人が増え、恥の観念が失われてしまった。こうした国家が傾くのは、無理のない話です。
安岡先生は人間と動物を区別するものは恥だと書かれていました。道徳に外れたことをすれば、昔はよく「恥を知れ」と怒られたものです。恥の裏側には敬、敬うという感情がありました。ここが人間と動物を区別する分かれ目だというのですが、今はその恥が失われてしまっています。まさに日本人は動物レベルに落ちようとしている。国家の危機というしかない惨澹たる状況になっています。
(中略)その一番の原因はどこにあるのかといえば、戦後教育の問題を指摘するしかありません。教育から道徳が、あるいは人間学が消え、学校でも家庭でも子供に人間としての正しいあり方を教えなくなってしまいました。そういう状況下で、昔では考えられないような事件が次々と起きているのです。】

道徳など必要ない。人間学など勉強しなくて良い。知識の学問だけ勉強すればそれで良い・・・このような風潮を戦後一貫して作り上げてきたのが日教組であり、その方針に同調した国の教育政策です。
その結果として現在の日本があるわけで、これは大罪と言って良いでしょう。
国家のエネルギーや国家の活力というものは、突き詰めればその国の有する人間力に尽きるわけです。
取り分け国家のリーダーとなる層にどれだけの人物がいるかにかかっていると言ってよく、エリート層に人材が輩出された時は国が最も強くなり、大いに発展する時期となります。
日本の歴史に残る偉人達を調べて行くと、悉く人間学を学んでいるといっても過言ではありません。
例えば上記明治維新一つ見てみても、その原動力は人間学を学び人物を磨き続けた一握りの個人の力によるものであり、やはり人間の背骨をつくるものは人間学しかないというように私は確信しています。
以前『医学教育の在り方』というブログで別の観点から日本の教育体制の問題を指摘しましたが、それも含めて今こそ日本の教育体制を抜本的に改革する必要があるというように私は考えています。

以上、長々と述べてきましたが、上述したようにまずは日本と日本人のアイデンティティを再確認し、そして西洋文明の限界ということや20世紀とはまるで異質な21世紀の特性といったものを全て総括した後に、日本の在り方を個別具体的に議論して行けば良いわけで、昨今の議論項目は余りにも稚拙で表面的なものが多いというように私は感じています。
この21世紀に日本民族はどういうふうに世の中に貢献すべきなのかということについては、来月株式会社致知出版社から発売予定の『森信三から学ぶ人間力』の中でも先生の考察を若干ご披露していますし、更には現在執筆中で株式会社PHP研究所から今春を目処に出版予定の『日本の宿命』でも、21世紀というのが20世紀とはどう異なってくるのかということや、21世紀の日本の行くべき進路というものについてご披露したいと考えています。
皆様には是非とも両著をご一読頂き、その上でご自身の21世紀に対する洞察力を高める一助として頂ければと思っています。

関連記事
多極化する世界
「通貨戦争」と基軸通貨ドル
講演・執筆活動について
社会貢献活動の一つの在り方~森信三全集を現代の若者達へ~
21世紀に対する洞察
TPP参加における基本的な考え方
歴史的変革期にある日本
個人と大衆
執筆活動について2

参考
※1:World Economic Outlook (WEO) October 2010 Chapter 1. Global Prospects and Policies
※2:World Economic Forum Annual Meeting 2011
※3:SBIアラプロモ株式会社ALAとは
※4:2010年10月4日yoshitaka_kitao – Twitter
※5:2010年10月4日yoshitaka_kitao – Twitter





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  1. 日本民族には”国命がある”との森信三氏の教えを初めて知り、かつ目された気がしました。
    戦後の学校教育が何故人間性を養うことをしてこなかったかの謎も解けた思いです。
    北尾氏が事業家である立場を超えて、21世に残って行ける日本になる為真剣に学問し、これをインターネットメディアを使って広く国民に啓蒙する姿に胸を打たれます。
    東西文化を融合する縮図を創造するのが日本としての究極目的が即ち、世界平和の架橋になるということですね。
    私も、2011年秋から「屋外放映産業」を興そうとするICTベンチャーです。心の取り処がこれで出来ました。
    ありがとうございました。
    日々、先達の師に学ぶとはこういう事をいうのでしょうか。

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