北尾吉孝日記

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今回は先月17日のブログ『夢の物質ALA』でも知の巨人の一人として御紹介した、日本が誇るべき天才的数学者、岡潔氏について以下述べて行きたいと思います。
岡潔(1901年-1978年)という人物は、1901年に大阪に生まれ京都大学理学部数学科を卒業して、51年に日本学士院賞を受賞し60年には文化勲章を受章した大変な世界的数学者でありますが、単なる数学者というのではなく実は日本の神道や仏教、あるいは大脳生理学といったもの全てに非常に造詣が深い人であります。
先月10日に復刻版として岡潔著『日本民族の危機―葦牙よ萌えあがれ!』(以下、「本書」)が株式会社日新報道という所から出版されたわけですが、当該書籍を岡潔研究会の横山賢二氏よりお贈り頂きました。
その本を読破して岡潔という人物の深さに感じ入り大変な感銘を受けたわけですが、そうしたことから私自身が岡潔という人間を徹底的に究明したいというように考えるようになり、これから岡氏が執筆したもの全てを暫くの間読んでみようと思っているところです。
今手に出来る岡氏の全著作については古本屋も含めて注文しましたが、絶版物等に関しては横山氏が岡潔研究会で色々分析しているものがありますので、それをまた読んでみようというように考えています。
本ブログでも幾度か述べた通り、私は読書をする場合、その著者と肝胆相照らす間柄になるまで読込んで行くのですが、これまでも安岡正篤氏や森信三氏等を徹底的に読むことにより初めて己のものにしてきたわけで、あれやこれやというように読んでいますと殆どと言って良い程何も深くは身に付かないというふうに私は認識しています(下記参照:2011年10月13日北尾吉孝日記『読書の在り方』より抜粋)。

【昨年11月に『社会貢献活動の一つの在り方~森信三全集を現代の若者達へ~』と題したブログで下記のように述べた通り、森信三という日本が誇るべき偉大な哲学者であり、教育者である素晴らしい人物の全集というのは手に入れようと思っても殆ど手に入らないものです(中略)
それ故幸運にも手に入れることが出来たものについては、私が印を付けた箇所等を秘書に全てデジタル化して貰い、そのデータを何度も読むようにしています。
何故かと言いますと、この本を何度も読んでいれば、当然のことながらそれは傷んで行くからです。
つまりは、それ位になるまで読込んで血肉化して行き、そしてその著者と肝胆相照らす間柄にならなければいけないということです。もっとも真の血肉化には実践・行動が伴わなければならないことは言うまでもないことです。
本を読むというのはそういうことを言うのです。】

上記文脈で言えば、本書において岡氏は次のように述べており、前述の安岡氏や森氏、あるいはシュバイツァー博士やガンジー等々、私が感銘を受け皆さんに御紹介するのは少し古い人ばかりですが、それは現代において本当の意味で勉強をしている人というのが残念ながら殆どいないということではないかと感じています。

『本を読むにも一人の人を選んで読まないからいけない。一人を選んで読んだら、信ずるとはその人を信ずることです。大勢、誰かれなしに読んだら、みな、信じない。読書とは選ぶことです。
何を読むかを選ぶこと、それから読むことが大事です。丁度、肉体を維持するのに大事なことは、何を食べるか選んで食べることであるように・・・・・・。』

今年1月『21世紀に対する洞察2』と題したブログでも指摘したことですが、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチや親鸞、あるいは最澄や空海等々、やはり天才というのは皆何から何まで全てにおいて秀出ているのであろうという気がしています。
本書において岡氏は日本の教育制度について大変憂いておられ、特に戦後の日教組教育に対し非常に辛辣な批判を加えているわけですが、その中で教育の在り方というものを大脳生理学的見地から述べておられます。
大脳皮質について言いますと、昨年3月に執筆したブログ『人生を生きて行く上で大事なこと』でも下記の通り述べましたし、あるいは「論語と脳の関係を語るもの」として『脳は『論語』が好きだった』という本もありますが(※1)、私自身も教育というものを脳との関わりの中で捉え一体どの時期に脳のどの部分の発育を促すべきかというようなことに以前から非常に強い関心を持っています。

【皆さんは人間と動物を区別するものは何だと思われますか?
(中略)脳神経学の世界で見てみますと、脊椎動物の中で動物と人間の決定的な違いがどこにあるのかと言えば、それは新皮質、正確に言いますと前頭連合野という部位にあるとされています。この前頭連合野という部位は人間の思考や想像、あるいは意志決定といったものをコントロールしていますが、これについてはチンパンジーでも殆ど無く、人間のみが発達していると言われています。そして、新皮質の中で知能座と言われているような他の脳の部位は大体3歳ぐらいのまでの間に完成しますが、この前頭連合野については20歳ぐらいまでの間に完成します。このような動物と人間を決定的に違い付ける前頭連合野に対してどのようにアプローチすれば、素晴らしい人間が出来て行くのかということに関して、私は今非常に大きな関心を寄せています。】

これまでも日本の小中高を通じての所謂暗記教育に対し本ブログにて批判的見解を度々述べてきましたが、学校教育の目的として岡氏は本書において次の通り指摘しています。

『学校教育は頭を発育させるのが目的である。ところが日本は、明治の初めから(欧米の)学問恐怖症にかかっている。そのため多くの人は学校教育とは学問をさせることだと思っている。それが昂じて、側頭葉へ記憶として学問を詰め込んで置けば利く、最近では授業さえすれば利くと思っているらしい。これが全然迷信であったことが、今度、大学生をよく見せて貰ってわかったと思う。今度の実験の一つの大切な結果であるから繰り返しておこう。
側頭葉へ学問を(記憶として)詰めこんでも少しも利がない。』

即ち、暗記教育というのは側頭葉だけの世界であって、イノベーションやクリエーションといったことが発現してくるということになりはしないわけで、前頭葉と頭頂葉、特に頭頂葉を良く発育させることがそういったイノベーションやクリエーション、あるいは広義の情緒というものを健全化させる上で非常に重要なのであろうというようなことを岡氏は述べているのです(下記参照:本書より抜粋)。

『一国が、立派に国として立ってゆこうと思えば、二つのものがいる。一つは、心を一つに合わして働くということです。これはマネージメントの問題。
もう一つは、創造力、クリエーションの問題です。創造力というのは、頭頂葉より無差別智が働いて頭頂葉に実るものです。従って、頭頂葉が汚れたら万事おしまいです。逆に、頭頂葉がよく働いていれば、前頭葉を道具に使えます。そのまた道具に側頭葉を使えるが、頭頂葉に無差別智が働かなくなったら、万事おしまいです。』

そしてまたもう一つ私が興味深く感じられた視点というのは西洋的思想、あるいはその考え方に基づいた西洋科学というものの限界性についての非常に鋭い指摘であり、その限界を超越するものとして仏教についても上記「無差別智」の議論を行いながら大変面白い展開をしておりますので本書より引用して下記御紹介します。

『人は生きています。従っていろいろな生命現象が起こる。たとえば人は見ようと思えば見られます。何故できるか。この方面を受けもっている自然科学は医学ですが、医学はこれに対して一言も答えていない。人は立とうと思う、そうすると立てる。全身四百いくつかの筋肉が、同時に統一的に働いたから立てるわけです。
人は生きているから知覚運動をする。が、何故できるのか。これについて自然科学は何一つ説明していない。その知らないということさえ、知らないように見えます。
一方、仏教の方はどうかといいますと、説明している。
私達が普通に経験する知力は、理性という型に類します。これは意識的にしか働かない。それも順々にしかわかっていないという、こういう二つの性質を持っている。人が経験するのは大体がこの型の知力です。
しかしこれと違ってもう一つ、たとえば仏教を修行する時とか、数学の研究をする時とか、そういう時はこういう型でない型の知力を経験するのです。これは無意識裏に働く知力です。つまり、結果によって働いていることはわかるが、働かそうと思っては働いているのではないから、働いているのが少しもわからない。
その結果にしても、徐々にわかっていってついにわかり終わるというような、そんなわかり方をしません。一時にパッとわかる。この後の方の無意識を、仏教では無差別と言う。それからとって、かような知力を“無差別智”というのです。
(中略)真言宗を除く諸宗は、この無差別智を働き具合により、四種類に区別し、各々の名前がつけてある。大円鏡智(だいえんきょうち)、平等性智(びょうどうしょうち)、妙観察智(みょうかんざっち)それから成所作智(じょうしょさち)、この四種類の無差別智を四智(しち)といいます。』

上記「一時にパッとわかる。」ということで言えば、これまた世界的に極めて有名な数学者であるポアンカレーの発見に対する見解が本書において下記の通り述べられているわけですが、ポアンカレーの発見の在り方というのは岡氏のみならず、他の大数学者達からも大変な支持を受けているものです。

『一九一二年に死んだ、フランスが世界に誇る大数学者に、アンリー・ポアンカレーという人がいた。「科学と方法」(岩波文庫)という本を書いて、その中に一章を設け、数学上の発見と題して、自分の数多くの経験を詳細に述べ、その後にこう言っている。
かように数学上の発見は、
一、パッと一時にわかる。
二、理性的努力なしには発見は行われないが、それが起こるのは努力の直後ではなく、大分時間が経ってから後である。
三、結果は殆ど理性の予想の範囲内にはない。
この三つの特性を備えているのだが、これが如何なる知力の働きによるのか、如何にも不思議である。』

上述した文脈で言えば、岡氏は下記引用にあるように所謂頭頂葉の世界でしかクリエーションというものはなされ得ないというふうに述べているわけですが、私自身も幾ら側頭葉教育を徹底的に行ってみても頭頂葉や前頭葉といった部分を十分に発育させない限りにおいては様々なノーベル賞級の天才的な発明発見というものは生まれてこないのであろうというように認識しており、当該部分の育て方といった所については本書において詳述されている通りです。

『数学上の発見は、無差別智の働きによって起こるのです。
学問上の発明発見、芸術上の創作、みな、大体同じ方向のものと思います。
で、クリエーション、創造をよく働かすようにするには、無差別智がよく働くようにすればいい。この無差別智はどこへ働くかというと、真我です。小我というのは迷いです。』
『ポアンカレーの言う発見はインスピレーション型発見であって、数学上の発見には今一つ情操型発見というものがあるのであるが、インスピレーション型発見は、私の場合は、ポアンカレーが挙げたものの外に、二つの大きな特徴を持っている。
一つは必ず、「発見の鋭い喜び」(寺田寅彦先生の言葉)を伴うということである。
(中略)第二は、決して疑いを伴わないことである。
或る時私は、一つの非常に重要な、インスピレーション型の数学上の発見をした。それで私は、その発見が四隣にどういう影響を及ぼすかが見たくて、それを次から次と調べて行った。発見をしたのは秋風が吹き始めた頃であったが、その発見を論文に書き始めた時はもう蛙の声がしきりであった。九カ月程、証明してみないで捨てておいたのである。
この例が、創造が前頭葉で行われるものでないことを、最もよく示している。数学上のインスピレーション型発見は頭頂葉に実るのである。
(中略)論文に書く時は、その頭頂葉に実った創造の影を順々に前頭葉に映して、それを紙に書き写して行くのであるが、そうして論文が出来てしまうと、後は三日もすれば跡方もなく忘れてしまう。
(中略)こんなふうだから、創造は前頭葉で行われると、欧米の大脳生理学者が言っているのはでたらめである。真の創造はかように頭頂葉で行われる』

先ほど「無差別智はどこへ働くかというと、真我です。小我というのは迷いです。」とありましたから「真我」及び「小我」についても下記引用する形で少しだけ言及しておきますが、詳細については本書にて御確認頂ければと思います。

『自然を浮かべ、人の世を浮かべている悠々とした心が、本当の自分である。(中略)悠々とした心とは、時間的にも空間的にも際限のない心で、これを“真我”という。これが物質主義であれば、五尺の体とその機能とが自分であるとなる。この五尺の体とその機能が自分であるというのを“小我”といいます。
人は五感に頼りがちです。五感で見るものだけが、ある、存在する、逆にいえば、それしかない、それが全部であると思いがちです。それで“小我”という名前がついている。こういう小我は迷いである、真我こそが自分であるというのが、仏教の教えです。』

本書を見ていますと仏教というもののある意味での奥深さというものが分かり、仏教についても少しは勉強せねばならないというようにも思うのですが、中々時間がとれない現況を考えますと、やはり仕事を辞めてのんびりとした中でそれに打ち込むというようにしなければならないのだろうと感じています。
要はこういうものでも結局は集中しなければ殆ど意味のないことであって、岡氏も下記指摘しているように集中力というのは正に前頭葉の世界であるというわけなのです(下記参照:本書より抜粋)。

『しかし、記憶するのが無駄だと言っているのではない。
(中略)上手に丸暗記しようと思えば、精神統一下においてしなければならない。精神統一とは、精神集中を続けていると、その中に努力感を感じなくなる。その状態が精神統一である。
精神集中は、大脳前頭葉の意志力である。これを強くしようと思えば、(中略)丸暗記させるのが一番よいと思う。
(中略)精神集中とは心の一か所に関心を集め続ける力である。』

それから真善美ということについていつか中国古典的な見地から小生の拙い著で御披露しようと考えていたのですが、本書で述べられている岡氏の分析等を見ていますと、必ずしも中国古典的にというのではなく仏教的にどうかということと比較しながら考察して行くというのを将来ある時点において研究せねばならないというように思っているわけです。
また日本民族とはどのような民族かということについても、本書にて岡氏なりの分析を色々行っており、例えば「日本民族は、私は、他の星から来たのだろうと思います。」というように常人の考えからは逸脱した発言もしています。
それ故特に晩年については世間から少し遊離した時期もあるわけで、中々難しい所であるというように私は思っています。

以上、『日本民族の危機―葦牙よ萌えあがれ!』より多くを引用する形で長々と述べてきましたが、要するに「頭頂葉が働きを発揮し、その働きが前頭葉に及ぶ」ということで頭頂葉を良く発育させるということが最も大事になるのですが、その辺りについて更なる進化を遂げている現代大脳生理学といったものと比較しながら「脳の発達と教育」、あるいは「脳部位の発達とイノベーション・クリエーション」というようなことを私は今後研究して行かねばならないと最近感じています。
事業活動においてもイノベーションが必要であるというのは今年7月の『岐路に立つ日本』と題したブログ等で私自身も盛んに述べていることですが、やはり事業家の中でも子供時代に何らかの形で頭頂葉を発達させてきた人というのが事業活動におけるある意味でのイノベーションというものを起こしているのであろうというようにも思うのです。
従って、例えば私の後継者を考える場合においても、頭頂葉が発達しているのはどういうタイプの人物なのか、そしてその頭頂葉の働きが如何に前頭葉に及ぶのかといった観点を加味するということも必要であるとさえ私は考えています。
現在の教育制度の下で秀才と称される人間というのは、実は記憶を司る側頭葉の暗記能力に長けているのが確かなだけで頭頂葉及び前頭葉の働きがどれ程優れているのかについては定かではないわけです。
先ほど岡氏の言葉も引用して述べたように丸暗記というのを一概に否定するものではありませんが、そういったことも含め本書には様々なことが書かれていますから、御興味のある方は是非読んでみてください。

参考
※1:【書評】篠浦伸禎『脳は『論語』が好きだった』




 

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