北尾吉孝日記

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今月24日のtweetにある通り、先日私は埼玉県嵐山町の社会福祉法人慈徳院(こどもの心のケアハウス嵐山学園)という情短施設(情緒障害児短期治療施設)で恒例の餅つき大会に参加してきました(下記参照:2008年12月30日北尾吉孝日記『未来を紡ぐ子どもたちを見て』より抜粋)。

【この施設はいわゆる情短施設(情緒障害児短期治療施設)という施設で、日本にはこの種の施設は30程度しかありません。ちょうど埼玉県にはその施設がありませんでしたので、私の個人的な寄付で創り上げたものがこの慈徳院です。
(中略)どのような子どもたちがどんな虐待を受けて育って来たのか、そしてまたその子どもたちにどのような治療や育て方を施すことで普通の状態にしていくのか、そのようなことを私自身が直接知ることで、はじめて本当の意味でSBI子ども希望財団の活動も出来ると思い、この施設を埼玉県嵐山町に建てました。
偶然ですが慈徳院は私の尊敬する中国古典の碩学、故安岡正篤氏(中国古典に通ずるだけではなく、西洋の歴史哲学、あるいは日本の歴史哲学の幅広い学識を有する碩学)の記念館の目と鼻の先にあります。その地に埼玉県から土地の提供を受け、教育棟、体育館、居住棟、教職員棟の4棟の建物を建設し、その中で学校教育も受けられる学園を作り上げました。】

この慈徳院は結構入退園がある施設なのですが、今年を振り返って一番感じたことは一応の治療が済んで退園して行く子供達について、その後のフォローアップというのをやはり何らかの形で行わねばならないということです。
何故私がそのように思ったのかと言えば、施設を出て高校に進学した一人の女の子が様々な問題を抱え、そして自殺をするという誠に痛ましい事件を経験したからです。
心が完全に安定するまで長期に亘って置いてあげることが出来れば、そんな悲劇は起こらなかったのではないかと思うのですが、入園してくる子供、そして入園させねばならない子供が沢山いる中では、残念ながら中学校3年間を終え高校に進学するといった節目で退園させざるを得ないということにもなってしまうわけです。
我々の施設には精神科医の先生や看護師さんといった心の病んだ子供達の治療に携わることが出来る専門家もいますし、あるいは施設長を含め多くの施設員が夫々の子供をつぶさに観察し良き相談相手となるべく日々努力し続けてくれています。
それ故まだまだ相談が必要な子供達であるにも拘らず、施設から離れた途端に相談出来る人間が周りに誰もいなくなるといった状況にもなりますから、結果として今回のような不幸が齎されるということに繋がってしまうわけです。
また、施設の子供達の凡そ9割は実の父母あるいは継父母から様々な虐待を受けたというケースですが、また元の場所に戻らざるを得ないとなれば痛ましい過去と同じような状況が再度続いて行くということもあり得るわけで、やはり子供達の心の安定が再び脅かされてしまうことになる可能性も非常に強いわけです。
そうした意味では一旦施設に収容し再び対処せざるを得なくなった子供達は勿論のこと、心の安定を取り戻したと見られる子供達であっても病気が元に戻ってしまうということが多くあるわけですから、施設を離れた後にどういう環境に持って行き如何にフォローアップをして行くのかという部分まで考えねばならないというふうに私は強く思っています。
片一方で本ブログでも度々述べているように微力ながらこの虐待問題については公益財団法人SBI子ども希望財団も通じ、社会から実の親や継父母による子供虐待を失くすべく様々な活動を展開しているわけですが、年を追うごとに虐待児の数は増加し中々収まる気配がないというのが現況です(参考:「児童相談所における児童虐待相談対応件数」)。
では、そうした状況というのが一体如何なる要因により齎されているのかと考えてみますと、やはり凡そ2年半前に『児童虐待と戦後教育』というブログでも下記指摘したように戦後教育の欠陥、即ち戦後日本における道徳教育の欠如ということが挙げられると思います(参考:2008年3月27日北尾吉孝日記『戦後日本の道徳教育と家庭内教育』)。

【なぜこのように虐待される子供が増え、時として死に至るような状況になっているのかと考えますと、それは戦後の教育に問題があったのではないかと思っています。親と子のあり方、兄弟のあり方、あるいは友人のあり方と言うことについて、教育する必要性があると思います。例えば、親子について言えば、親の子に対する無償の愛や、あるいは子の親に対する孝など、戦前はそのような徳目がしっかりと教えられてきました。兄弟のあり方や友人のあり方についても同様に教えられてきました。それが今やそのようなことが古い儒教的な考え方として人々に全く受け入れられない状況になっています。今や誰も見向きもしないような状況であり、家庭でも学校でもそのようなことが教えられなくなりました。このようなことが年々虐待児が増えている原因ではないかと私は思っています。】

それから大家族の下で育つ場合には単に両親の子供というだけではなく我が家の子供となりますから、子育てに爺婆が参加すると様々な形で子供に対して目が行き届きますし、子供の話を聞いてあげることも出来るわけですが、核家族化が進んだことで親の代わりに子供達に愛情を与えてあげるというのが非常に困難になったことも挙げられましょう。
更には共働き世帯が子供を施設に預ける場合においても、本当にトレーニングされた大変良質な公的サービスを安価で提供出来るような施設というのは未だ少なく、そうした面で非常に出遅れている部分が結構あると思われますから、やはり政府としてはこうした所にもっと税金を配分すべきではないかと考えています。
と言いますのも、年寄りは何歳になっても選挙権がある一方で子供達にはそれも付与されておらず、社会に対しては親を通じて以外、何の主張も出来ないわけですから、特に今のような世の中ではそうした社会的弱者に対し様々な公的対応をして行かないと非常に難しい部分があるのではないかと感じています。
また、凡そ4年半前の『児童福祉について』というブログでも下記のように指摘しましたが、施設出身者が社会に出て行くという場合、彼らの自立を阻む様々なハンディキャップが彼らの前に立ちはだかっているという現況もあります。

【欧米ではキリスト教をベースとした様々な児童施設があり、社会的にもそれを援助していくシステムが出来上がっていますが、日本では篤志家が寄付する場合などが多く、そういった宗教的な部分も少ないため、社会全体として児童施設を支援していこうという気持ちが非常に薄いと思います。
例えば施設出身の方が結婚する場合、自分が施設の出身者ということを言えば、本人達は納得しても親や親戚が皆反対するという話があります。
他にも就職する場合に、保証人になってくれる人がいないという理由で就職できないということもあります。アパートを借りる時も保証人がいなくて借りれないことも多いのです。
また、施設で生活する子ども達は集団生活のための規律の中で、勉強したくても勉強できないという状況にあり、そのため一般的に施設の子ども達は成績が悪いということになってしまうという悪循環が引き起こされているのです。】

今、大企業に対しては障害者雇用義務のみが課せられていますが、上述したような施設出身者についても一定数以上の雇用義務を負うといった形で同じように法律で規定すべきであると私は考えており、彼らが社会できちっと働き自身の力で生きて行くということこそ法的にサポートすべき事柄ではないかと思っています。
上述したように20歳になるまで子供達は選挙権がないわけですが、その一方で成人の身体障害者にはそれが付与されているということもあって上記法的サポートの差というのが出てきているのではないかと私は見ていますが、政府はそうした所に全く目を向けてはいないのです。
また上記『児童福祉について』でも述べたように施設育ちの子供達にとって高校を卒業し大学へ行くというのは中々困難なことであり、大学進学を希望する多くの子供達が大学に行けないというケースが非常にあります。
『論語』の「衛霊公第十五」に「有教無類(教えありて類(たぐい)なし)」という言葉があるように本来「人を教育し育てるのに、貴賎の区別はない」のであって、無論教育により人は向上出来るわけで決して生まれつきのものではないのです。
義務教育だけしか受けることが出来ず教育の機会が均等に与えられていないというような現状は非常に可笑しいと言わざるを得ないわけで、公私共に様々な奨学金制度が設けられていますが一人で生活していくことを考えると金額的に不十分なものであり、ある一定以上の学業成績を収めかつ学問を続けて行きたいと考える施設出身者に対しては手厚い補助を行なうべきではないかというふうに感じています。
勿論、家の柱まで削って飯を炊かねばならないというぐらいに貧を極めたあの勝海舟の有名な話にある通り、オランダ語を勉強しようにも書物を買うお金が無い彼は日蘭辞書「ヅーフハルマ」を2組筆写し一組を売ってお金にしましたし、あるいは以前ブログで御紹介した二宮尊徳もそうですが苦労して勉強をするというのは確かに大事な要素であることは間違いありません(参考:2009年5月7日北尾吉孝日記『二宮尊徳の三徳』)。
しかしながら、教育の機会均等ということを言うならば、こういう施設の子供達はずっと恵まれていないわけですから、手厚い補助を受けることが出来ても良いのではないかと思うのです。
私自身、個人で取り組んだところできりがないことであるとは思いつつも、これまで何人かの子供達の学業費を支援してきており、御縁があった人には出来る限りのことをしてきてはいます。
唯、やはりそこには限界がありますから、これまた国や地方が資金面で積極的に関与して行くべき事柄ではないかと私は捉えており、例えば我々が国や地方へ納める税金の一定割合については公的なものに対し納税者が判断し自由に使うことが出来るというような制度も考えてみては如何かというふうに思っている次第です。




 

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