北尾吉孝日記

『忍耐というもの』

2012年3月8日 13:20
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修身教授録』の「第18講―忍耐」で『「自分は忍耐ということについて、これまで果たしてどの程度守れたか」と反省してみられたら、この忍耐という徳目一つさえ、決して卒業できていないことが分かるだろうと思います』と森信三先生御自身が述べているように忍耐というのは非常に難しいものです。
「忍は忍なきに至ってよしとす」という石田梅岩先生の言葉がありますが、そうした忍ということの極致にダライ・ラマも達していたという旨をある本で読みましたが、同じ境地に達するのは至難を極めることです。
そもそも忍というものは、ある意味人間だけでなく動物も持っている個々夫々の感情をどれだけ抑えるのかということですが、それを抑えるには相当な精神的トレーニングが必要になりましょう。
王陽明が弟子に与えた手紙の中に次のような言葉があります。「天下の事、万変と雖も吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず。」王陽明は我々が無感動になることではなく、如何に喜び、如何に怒り、如何に哀しみ、如何に楽しむかが大切だと言っているのです。我々は往々にして感情に溺れ、執着する事によって欲の虜になっていきます。人間学を通じてそうした感情を適度に抑えるということを修養しなければ、人間としての完全なるバランスの世界には到達し得ないわけです。
『草枕』の一節に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」とありますが、人間の知情意全体のバランスを如何に保って行くのかについては、例えば知に関しても「智に働けば角が立つ」わけですから、知を押し通すというのではなく知をどう表現して行くかといったように、知情意夫々の中でのバランスも重要になるのです。
「中庸の徳たるや、其れ至れるかな(中庸は道徳の規範として、最高至上である)」と『論語』の「雍也第六の二十九」でも述べられている通り、中庸という一つのバランスを保って行くのは至難の業であって、知情意全てをバランスすべく死を迎えるまで修行し続けて行かざるを得ないのだろうと思います。
道歌の中にも、例えば木喰上人(もくじきじょうにん)の歌に「まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸」とありますが、こういうことを始終言い続けながら、丸く丸めて行く努力を怠ってはいけません。
唯、例えばある事柄で人から怨まれたという場合、果たして何を以って怨みに報いるのかという問題がありましょうが、孔子は『論語』の「憲問第十四の三十六」で「直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ(公正公平をもって怨みに報い、恩徳によって恩徳に報いるべきです)」というふうに述べています。
つまり、直というのは公正公平を指しており、公正公平というのもある意味一つのニュートラルな世界に立つことを意味しているわけですから、須らくこの直を追求して行くことなしに中庸の世界には到達し得ないということです。
結局のところ、様々な精神の糧(かて)となる書物を読んで自らを省み、そして自分の心を極めて行くということ、即ち「自反尽己(じはんじんこ)」ということ以外に道はないのであろうと私は思っています。




 

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