北尾吉孝日記

「『論語』と私」

2012年3月29日 13:02
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今、『論語』に関する本を二冊執筆していまして、一冊目については既に二回目の校正に入っており、それ程時間が掛からずに出版の運びに至ると思います。
これらを書いていて思うのは、『論語』という中国古典に私のディシジョンメイキングが如何に依存しているかということです。
何か大きなディシジョンをする時には、必ず『論語』に振り返って物事を考えて行こうという姿勢が何時の間にか私に醸成されてきています。
例えば何の件とは申し上げませんが、最近では特に次の二つの孔子の言葉が私の頭の中に去来しました。
一つ目が『論語』の「憲問第十四の三十六」にある「直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ(公正公平をもって怨みに報い、恩徳によって恩徳に報いるべきです)」という言葉です(※1)。
「怨みに報ゆるに徳を以ってす」という老子流の考え方に対して、孔子は怨みや悪には直(ちょく)をもって報いるべきというふうに述べています(※2)。
自らがきちっとした形をとっているにも拘らず、ある事柄で人から怨まれたり、悪意を持って攻撃されるといった状況が生じた場合には、公平公正に対応すべしというのが孔子の基本的な考え方です。
即ち、今風に言えば、司直の手に委ね法的措置を採るということなのであろうと私は認識しています。
そしてもう一つ思い出したのが、『孟子』の中にある「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」という、あの有名な孔子の言葉です。
義が貫かれていないにも拘らず、その何かに対して泣き寝入りするような生き方は、私には絶対に出来ません。
私が中国古典、取り分け『論語』から学んできたのは、筋を通して義を貫くという生き方であって、如何なる事態に直面しようともそうした姿勢を決して崩さず、これまでと同じように勇気を持って貫き通して行きたいというふうに強く感じる次第です。

参考
※1:2012年3月8日北尾吉孝日記『忍耐というもの
※2:2010年10月18日ちょんまげ英語日誌「老子 第六十三章 無為を為し、無事を事とし、無味を味わう




 

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