北尾吉孝日記

『葬式について』

2012年4月18日 17:20
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今月8日の読売新聞に「戒名必要ない56%、葬式簡素派9割」という調査記事が掲載されていましたが、こうしたことはどのような信仰を持っているか、あるいは何も信仰していないかといった問題に深く関わったものと言えましょう。
私の場合、いつも人智を遥かに超えた大いなる力が様々な形で作用しているというように基本的には認識していますから、自分の言動は常に律しなければならないというふうに思っています。
『論語』の「季氏第十六の八」でも次のように述べられていますが、天そのものの存在を認めないが故に天も天命も恐れることはないという人もいますが、対照的に私自身はそういうもの有りきで出発しているのです。

 書き下し文『孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。』
 現代語訳『孔子がおっしゃった。「君子には三つの畏敬するものがある。天命を畏れ、徳行のある人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないので畏れず、徳行のある人を見下げ、聖人の言葉を侮辱する」』

従ってまずは大前提として、例えば戒名の良し悪しによる値段の問題といったことまで持ち出すのではなく、上述したような世界を信じるか否かで全ての態度が変わってくるといえるのではないかと思います。
その上で葬式を「簡素に行う方がよいか、盛大に行う方がよいか」について私見を述べますと、夫々の家の格式に応じて葬式を行えば良いと思う一方で、分を超えてまで派手に執り行う必要はないというのが私の立場です。
例えば孔子も、自分の葬式や息子の鯉の葬式、あるいは一番弟子の顔回の葬式といったものについて、やはり分を超えるものはしてはいけないという立場であったようです。
また、最近財界では「お別れの会」というのが流行っており、身内だけで葬式を済ませてその後にホテルなどで「お別れの会」を開くという形です。
生前ある程度の地位を得た財界人の葬式であれば、大体数名の坊主により盛大に執り行われるというのが昔のスタイルであったわけですが、今はその殆どが読経無しの「お別れの会」になっており、こうしたある意味坊主泣かせの状況というのも時代の流れというものでしょう。
私自身は、例えば父の命日にはきちっと供養をするというように比較的そうしたことを行っている方だとは思いますが、先ほど述べたようにそれは信仰の問題であり、夫々が信ずる道を貫けば良いわけですから、本件に関しては基本的には在るべき形を論ずるような性格のものではないというふうに認識しています。




 

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