北尾吉孝日記

『独ということ』

2012年5月7日 14:26
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「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るるものは必ず人に諛(へつら)ふものなり」という福沢諭吉の言葉を以前御紹介したことがありますが、本ブログではこの独立の「独」ということの意味について、以下述べて行きたいと思います(※1)。
独というのを「独りで寂しい」とか「孤立している」といったふうに浅解している人が結構いるように感じますが、なぜ独という字が東洋において標語や雅号に使われてきたのかと言えば、そこには深い意味があるからです。
それを一言で言えば相対に対する「絶対」を意味しており、要するに自ずからに足りて何ら他に期待することなく徹底して自分自身により生きる、そういうことを独というのです。
西郷南洲公が山岡鉄舟について語った言葉で「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」というのがありますが、正にこういう始末に困る人が独の人であります。
そしてその独の人でなければ、「艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ」わけで、それぐらい独というのは大事な境地であり、取り分け一国のリーダーになるような人物にとっては非常に重要なものです(※2)。
それが地位や金、あるいは妻子を頼って生きている人は、例えば「退職して地位をなくしたら、自分はどうなるのだろう…」とか「家内が居なくなったら、自分はどうなってしまうのか…」といったようになってしまうわけです。
そうしたものを一切頼らず正に「一剣を持して起つ」という宮本武蔵のような絶対の境地に到っている人は、自分自身を相手にして生きるものです(※3)。
即ち、そうした人は自己の絶対を尊ぶという「独尊」の世界にあって、そしてその独尊の人は「互尊」という感情を他の独尊の人に対して抱くわけで、独というのは先に述べたような単純な意味では基本的にはないのです。
先日ある人と話をしていて独についての浅解が一般の人にはあるように思われ、東洋における独ということの意味に関して筆を執った次第です。

参考
※1:2010年11月26日北尾吉孝日記『「北朝鮮砲撃事件」と日本国防再考論
※2:2009年11月4日北尾吉孝日記『腹と頭について
※3:2011年1月27日北尾吉孝日記『21世紀に対する洞察2




 

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