北尾吉孝日記

『人を育てる』

2012年5月11日 15:41
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昨日致知出版より刊行された拙著『ビジネスに活かす「論語」』でも述べましたが、人材育成に当たってもトップの中に確固たる基準、確固たる方針がないと本当に必要な人材を確保することは出来ないと私は考えています。
人材育成といっても一番重要なことは、例えば私どものように取り分け金融の世界で働く者の倫理的価値観についても、他業種と比してより高いものが要求されるというふうに思います。
それ故、私はSBIホールディングス株式会社の経営理念の第一に『正しい倫理的価値観を持つ(「法律に触れないか」、「儲かるか」ではなく、それをすることが社会正義に照らして正しいかどうかを判断基準として事業を行う)』ということを掲げているわけです(※1)。
それは金融という金を預かる商売にある者が、金の世界における様々な誘惑に負けるようなことがあってはならないという思いからで、医者や検察官等と同じように金融に携わる者にも非常に高い倫理的価値観というものが常に求められているのです(※2)。
従って、上述したことをきちっと身につけて貰うにはどうしたら良いのかという部分を、人を育てる上では終始考えておかねばならないというのが先ず第一にあると私は思っています。
そういう前提に立って、学校を卒業して間もない20代の若者のような人をどういうふうに育成して行くのかということですが、例えばトップ自らが何かにつけてああだこうだと彼らに言ってみた所で基本的には何も変わって行かないわけで、彼らを感化して行くというのは中々難しいことです。
では、ああだこうだと直接的に指導するのでなく組織として如何にきちっと育てて行く形にし得るのかと言えば、それは教えることに横着せず非常に高い倫理的価値観を持ち併せているような教育者的人間を適正に配置し、彼らを育て役として段々と全体を感化して行くということが組織という中ではやはり非常に大事なのであろうと思います。
即ち、トップの意思というものをある意味受け継いだ人が核となって他の人を感化して行き、そしてその感化を受けた人がまた別の人を感化して行くといった良い意味での感化の循環というものが順繰りに為されて行くことが最も望ましい形ではないかと思うのです。
そしてそうした形に持って行くために何を為すべきかと言えば、『論語』の「子路第十三の二」にも下記一節がありますが、才があるだけではなく人物も含めた所謂賢才をそういう組織の中で要職に据えて行くことで他の人も変えて行くということです。

 書き下し文『仲弓(ちゅうきゅう)、季氏(きし)の宰と為りて、政を問う。子曰く、有司(ゆうし)を先にし、小過を赦し、賢才を挙げよ。曰く、焉(いず)くんぞ賢才を知りてこれを挙げん。曰く、爾(なんじ)の知る所を挙げよ。爾の知らざる所、人其れ諸れを舎(す)てんや。』
 現代語訳『仲弓が季氏の執事となり、孔子に政治について尋ねた。孔子が言われた。「使用人の先頭に立って仕事を分担させ、小さな過ちは許し、優秀な人材は抜擢する」。仲弓がさらに尋ねた。「優秀な人材をどのようにして見つけ抜擢したらよいでしょう?」孔子が答えて言われた。「お前がよく知っている者の中から選べばよいのだ。そうすれば、お前の知らない人材も他の人たちが捨てては置かないよ』

怒って叱り付けて人を変えようといってもそれは無理な話であって、やはり「あぁ、なるほど…あの上司はああやって御客様からの信頼を得ているのか」というように上司自らが自身のきちっとした言動を見せることで、「なるほどなぁ~」という気持ちを如何にして部下に何度も持たせ得るのかが人材育成において私は非常に大事であると考えています。
拙著『北尾吉孝の経営道場』(企業家ネットワーク)でも御紹介しましたが、やはり「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という山本五十六元帥の言葉にある意味尽きるとも言えましょう。
即ち、人を褒め感激を与えるというのは人を感化し人を動かす上で大変重要な要素であって、怒って鞭ばかりを振っているような所には上述したような感激もなければ人が動くということもないわけです。
もっとも、人に感激を与えるために褒めるといったことを繰り返して行くのも非常に大切でありましょうが、では叱るべきを丸で叱らずにいて良いかというと勿論そういうものではありません。
人材育成に当たっては叱る事と褒める事のバランスが大切であると私は考えており、そしてまたある人を指導する場合には「何故あなたは叱られているのか」ということをはっきりと教え、よく理解させる必要があると思っています。
要するに叱る対象は当然のこととして、その状況を見聞きしている周囲も含めて「あぁ、なるほど…こういうことをするとああいう結果になりがちなのか。だから今回上司に叱られたということか。こういうことはしてはいけないな」というふうに皆を納得させ得る形できちっと叱るべきなのです。
そして明々白々に理解させて指導した後は、けろっとして直ぐに忘れるというぐらいが調度良く、それをねちっこくぐだぐだと思い続けるような上司は人の上に立つべき人物とは到底言い得ないでしょう。
勿論、人間というものは千種万様ですから、人をある程度見極めてそのタイプに応じて怒り方は考えるべきでしょうが、色々な人がいるからといって敢えて叱るべきを叱らずに我慢すべきかと言えば、私はそうは思いません。
例えば多くの社員が見ている前で叱る場合においても、私であれば「君はダメだ。こんなことすら分からなくてどうする」と頭ごなしに叱り付けるようなことはせず、「君ほどの人間がこんなことを分からないはずはないだろう」という形でその思いを伝えることでしょう。
何故そうするのかと言えば、「君ほどの人間が」と一言述べるだけで、相手は「なるほど!怒られて当然だ…」というふうに何故叱られているのかが素直に受け入れられるようにもなりますし、あるいは強く叱られているにも拘らず逆に嬉しがって発奮し更に頑張ろうという気持ちを持つようなケースも割合あるからです。
従って叱られている人間の性癖を全く考慮せず、単に怒鳴ってばかりいるだけで怒り方を考えないというのはいけないとは思いますが、指導すべき時には相手に理解させた上できちっと叱るということを必ずしなければならないというふうに私は考えています。

参考
※1:SBIホールディングス株式会社 企業情報・SBIグループ「経営理念
※2:2010年9月22日北尾吉孝日記『今問われる検察の倫理




 

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