北尾吉孝日記

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日本の政治のレベル、あるいは政治家のレベルと言っても良いかもしれませんが、それは国民の選択により為されるものですからイコール国民のレベルを指しています。
福沢諭吉も『学問のすゝめ』で次のように述べていますが、要するに愚民が選んだ政治家というのはやはりこれまた愚かであるわけで、先日の国会事故調査委員会における菅直人氏の御粗末限りない発言などはその典型とも言えましょう(※1)。

『かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。』

昔から民主主義というのは基本的に数が決めるわけですが、それは往々にして衆愚政治という形になって機能不全に陥る性質のものです。
即ち、数の力によって正論を吐く一握りの人達が埋没し、間違った事が正しい事のように扱われて結局のところ通ってしまうという問題を内包しているわけです。
それ故どうしても一般大衆のレベルを上げねば良き政治は成り立たず、そしてそのレベルを上げるためにはやはり彼らを先導するオピニオンリーダーたるべくエリート層の存在が不可欠になるのです。
歴史を見れば、そうしたエリートの養成を怠る国においては、殆どと言って良い程まともな政治は執り行われていないと言っても過言ではありません。
エリートを養成するというのは正に『論語』の「子張第十九の六」にある言葉、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う(博く学んで、志をしっかりと定め、疑問に突き当たったら機を逸せず人に教えを請い、現実の問題をじっくり考える)」ということではないかと思います。
やはり広く教養を身に付けて学問をする中で中庸の精神やリーダーとして求められる他の様々な資質といったものを磨いて行く、あるいは実社会での日常生活において常に事上磨錬し知行合一的な修養を積み重ね自己人物を練り更なる精神の向上を図って行く、というようなエリートの集団が無かりせば衆愚政治に陥らざるを得ないということです(※2/※3)。
今日本における最大の問題の一つとして私が認識しているのは、著しい劣化の一途を辿るテレビ局の番組の質、及び馬鹿の一つ覚えのように同じ事ばかりを司会者だけを代えて放送する画一的な報道状況というものです(※4)。
従って、私はニュースや科学的な番組の一部を除いて殆どテレビを見ないのですが、最近は寧ろBSの方がある程度の質を備えた番組を流しているのではないかとすら感じています(※5)。
取り分け世の主婦達が視聴する時間帯の番組の低級さには恐れ入りますし、そしてまたそこでは知識や見識の欠片も無いような人間がコメンテーターを務めているという始末で驚き呆れる時が多々あります(※4)。
勿論、以前ブログで御紹介した高橋亀吉さんや石橋湛山さんに匹敵するとまでは言えないもののコメンテーターとして立派な方もおられますが、総じて言えば日本は「一億総白痴化」の道を歩んでいるということなのだろうと思っています(※4)。

参考
※1:青空文庫 図書カード:No.47061『学問のすすめ
※2:2011年12月15日北尾吉孝日記『「坂の上の雲」のテレビドラマ化
※3:2012年4月20日北尾吉孝日記『自己を得る
※4:2010年11月2日北尾吉孝日記『旧来メディア衰退の根本要因
※5:2010年11月30日北尾吉孝日記『今年の新語・流行語大賞候補60語を見ての雑感





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  1. 私は政治家の質の低下は国民の史観の欠如だと考えています。史観のない有権者はやはり史観、思想のないジャーナリズムを迎合し世論を形成して、その世論によって選ばれた政治家は史観、思想といった座標軸が無いが故に自らの選択に自信が持てずブレて誤った選択をする可能性が増えます、そして国が立ち行かなくなって、次第に国民が政治に関心を持たなくなり、また更なる政治家の質の低下を招いているのが今の日本だと思います。エリートの意味合いも変わってきた様に思います。幕末まで勉強をするということは歴史、様々な思想を学ぶということと同義語だったと聞きます、しかし今は勉強というと試験をクリアする為だけの暗記と同じ意味になっています。暗記だけ優れたエリートでは世界で通用しません。北尾さんの様な教養があり経験も豊かな方の元で日本の未来を背負う真のエリートが育ってくれることを切に願っています。



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