北尾吉孝日記

『交友というもの』

2012年9月27日 17:48
この記事をシェアする

友との交わり方に関しては、『論語』の中にも「忠告して善を以てこれを道く。不可なれば則ち止む。自ら辱められること無かれ(誠心誠意その友に勧告し、善意をもってその友を導いて、彼が聞き入れなければ仕方がない。自ら詰まらない結果を招くようなことはしないことだ)」といった言葉があります。
私の場合、交友というものを考える上で幾つかの言葉を挙げるとすれば、吉田松陰も言うように先ずは「淡交」ということ、即ち「君子の交わりは淡きこと水の如し」という『荘子』の言葉が大事であると思っています。
次に友達という場合、年齢的に同じような人を割合想像しがちですが、正に世代を超えた「忘年の交」という『後漢書』の言葉、つまりは歳の違いを忘れて親しくするということも私がいつも頭に入れていることです(※1)。
それから、言葉自体は非常に単純ではありますが、「類は友を呼ぶ」あるいは「朱に交われば赤くなる」といった言葉が、大変重要な意味を持ってくるというふうに考えています(※2)。
そして最後にもう一つ、「幕末の先覚橋本左内が15歳の時に自分の生き方と志を認めたもの」である『啓発録』に記した五項目(文末参照)の一つ「交友を択ぶ(択交友)」という言葉、要するに友を選んでくだらない人間とは付き合わないという意味のことです(※3/※4)。
その意味では、『論語』の「子罕(しかん)第九の二十五」にも「忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ(誠実に約束を守ることを第一とし、決して自分にそぐわない人とは友達となるな)」という言葉がありますが、正に「交友を択ぶ」ということを大切にすべきであると考えています。

≪啓発録―橋本左内の自己規範・自己鞭撻のための手記―(※4)≫
― 稚心を去る(去稚心):余(よ)稚心を去るを以て士(さむらひ)の道に入(い)る始めと存じ候なり。
― 気を振う(振気):気とは、人に負けぬ心立てありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張(いきば)りの事なり。振(ふる)ふとは、折角自分と心をとゞめて、振ひ立て振ひ起し、心のなまり油断せぬやうに致す義なり。
― 志を立つ(立志):志を立つるとは、この心の向ふ所を急度(きっと)相定め、一度(ひとたび)右の如く思ひ詰め候へば、弥(いよいよ)切にその向きを立て、常々その心持を失はぬやうに持こたへ候事にて候。
― 学に勉む(勉学):学とは、ならふと申す事にて、総てよき人すぐれたる人の善き行ひ、善き事業を迹付(あとづけ)して、習ひ参るをいふ。・・・勉と申すは、力を推し究め、打続き推し遂げ候処の気味これ有る字(じ)にて、何分(なにぶん)久しきを積み思ひを詰め申さず候はでは、万事功(こう)は見え申さず候。
― 交友を択ぶ(択交友):世の中に益友ほど有り難く得難き者はなく候間、一人にてもこれ有らば、何分大切にすべし。

参考
※1:2010年12月20日北尾吉孝日記『忘年と新年の意味
※2:2009年11月4日北尾吉孝日記『縁について
※3:Google ブックス「橋本左内著「啓発録」英完訳書
※4:古典文学ガイド 近世「啓発録




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.