北尾吉孝日記

『感性を高める』

2012年10月25日 15:36
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今月5日の致知出版社メールマガジン「偉人たちの一日一言」では『易経』にある「君子もって虚(きょ)にして人に受く」という言葉について、『この「虚」は心にある空虚な隙間をいう。これは心が動く空間であり、感じる能力、感性の源である』というふうに紹介されていましたが、如何にして感性を高めるかは大変難しい問題です。
私自身も感性が豊かとは言い辛く本題にコメント出来るかどうかは分かりませんが、例えば『論語』の「為政第二の二」に「詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰く思い邪(よこしま)なし」とある通り、孔子というのは『詩経』を非常に大事にしたようです。
そして『詩経』の三百篇に「邪な心なし」というぐらい、詩には真の感情が吐露されており正にひん曲げたような思いが全く流れていない、というような意味のことを孔子は述べています。
また彼は、誰かが歌っていた詩で気に入ったものがあれば必ずもう一度歌わせ、そして自らは完全に真似て歌えるようになってしまうという程に、そうした面での才というものも備えていたようです。
それからもう一つ、孔子は楽というものに対して教育の中でもある意味重きを置いてきたわけで、今風に言えば情操教育ということに大変な力を入れてきたのであろうと思います。
『論語』の「雍也第六の二十九」にも「中庸の徳たるや、其れ至れるかな(中庸は道徳の規範として、最高至上である)」とありますが、恐らく彼の考えとして知情意というもの全てのバランスをとるという形にせねばならない、即ち中庸の徳というものを様々な形の中で持ち続けることを非常に大事にしたのではないかと私は思っています(※1/※2)。
そういう意味で情操教育ということは感性を高める上で大変重要なものではないかと思われる一方、音楽にも疎い私がコメントする資格はないかもしれませんが、芸術的なものだけが情操ということではないと思っています。
一つの言い方をすれば、人間に対する深い愛情、あるいは自然や取り巻く環境に対するある種の愛情といったものが、やはり情操の基本になっているのではないかというふうに私は考えています。

参考
※1:2012年10月12日北尾吉孝日記『知情意をバランスする
※2:2011年2月25日北尾吉孝日記『人間の使命





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  1. 娘が4つになるかならない頃、一泊旅行で同年の従妹と過ごした別れ際に「別れたくない」とつぶやいて、声も出さずに泣いた事がありました。
    こんなに幼い子に、親以外の人間に対して、単に好きという感情ではない「切なさ」を伴う愛情を感じる心があるのかと、たじろぐ思いでした。
    私は対人援助を仕事としていますが、「案ずること、察すること、そしてそれを伝えること」がとても大切だと思っています。人とのかかわりは情なくしては成り立ちません。
    北尾さんがおっしゃる通り、人への愛情を知っている、欲しているからこそ自然を美しいと思い、音楽や造形に感動するのだと思います。そして更に深く人を愛する心育てるのだと思います。



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