北尾吉孝日記

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本日11月1日は何時からか「古典の日」と法律で定められたようですが、何はともあれ大いに結構なことであるというふうに思います(※1)。
例えば『論語』は書かれてから二千数百年を経過しているわけですが、言うまでもなく二千年前にはキリストも生まれ、その500年程前には孔子や釈迦、あるいはソクラテスといった人物も生まれており、洋の東西を問わずそうした偉人達が同じ頃活動していたということは興味深い事実であります(※2)。
またそうした人達にまつわる古典は、言うまでもなく本人による著作ではありません。『論語』は孔子自らが書いたものではなく、釈迦やキリストにおいても伝聞されて行ったものを弟子達が全て纏めたわけですが、そうして今日まである意味最も人類に影響を与えた「古典中の古典」と言い得る書になっているのです。
何故ほぼ期を同じくしてそういうことになったかについて私なりに推測しますと、恐らく此の位の時期に各地で人口集積がある程度為され、人間関係を円滑にするための一つの道徳的な指針というものが必要になったのではないか、そしてある意味道徳と宗教は根を同じくするものですから宗教という形になり広まっていったのではないか、というふうに考えています。
私はずっと中国古典を中心に古典を読んできたわけですが、古典というものを自分自身の中でどう位置付けているかと言えば、先ず一つには人間というものが自分一人では生き得ない正に社会的動物であるという観点から大変貴重なものであると捉えています。
即ち、その社会的な動物が社会という人間の郡・集団の中で円滑に生きて行くための知恵というのは今も昔も全く変わっておらず、寧ろ生死にかかわる紛争が頻繁に起こる昔の方がそうしたことを真剣に考えていたかもしれないわけで、そういう知恵を学ぶという意味においても古典は非常に有益であると思います。
そしてその前提としてあるのは古今東西に拘らず人間性は変わらないということであり、それ故に普遍妥当性というものがある意味生まれ、例えば儒教についても仏教、キリスト教についてもあらゆる人種や国境を越えて信仰する人がいるということです。
それからもう一つ、私自身も今まで生きてきて「歴史は繰り返すというのは、確かにその通りだなぁ」というふうに実感しているわけですが、やはり人間が色々な環境の中で様々なことを引き起こして行き、そしてまた未来のある時点で同じような事柄が繰り返し起きるというのは必ずあって、その一つの環境下において事が起こった時の対処の仕方というのは、歴史書や古典等を勉強しある意味先人達の経験から学び得ると思っています。
例えば中国などは時の権力者が歴史を全て塗り替えて行くということをしてきたわけですが、それでも我々は歴史書を読みその時点における戦争や統治における人間の色々な動きといったものを学ぶことで、如何にして国が滅び如何にして国が栄えるのかということの一端や人間性の本質的なものを垣間見ることが出来たり、あるいは人間集団を率いるためにどうすれば良いかという知恵を得ることが出来たりするのです。
私にとっての古典の意味はまだまだ沢山ありますが主なものを一つ、二つ挙げるとすれば上述したようなものではないかと思われ、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と初代ドイツ帝国宰相・ビスマルクも言うように、古典というのは正に知恵の宝庫であるというふうに私は思っています(※3)。

※1:文化庁 文化関係の法令「古典の日に関する法律について
※2:2007年6月1日北尾吉孝日記「著書について
※3:2012年9月28日北尾吉孝日記『NHKドラマ「吉田茂」と日本の領土問題~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ~




 

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