北尾吉孝日記

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女人開眼抄』(致知出版社)の中で森信三先生は、『人間も「報いを求める心」から抜け出すことが出来たら、その時はじめて、真に心清らかな人――と申せましょう。同時に、そこに初めて真に人間の気品というものも出てくるわけです』と述べられていますが、一体何を以て「報いを求める心」となるのかは難しい問題です。
安岡正篤先生は、人生を生きる上で大事な3つのこと、「第一に心中常に喜神を含むこと」「第二に心中絶えず感謝の念を含むこと」「第三に常に陰徳を志すこと」の一つに陰徳を積むことを挙げておられます(※1)。
陰徳を積むというのは、「俺は世のため人のために之だけのことをしたんだ!」と言って回るのではなく、誰見ざる聞かざるの中で世に良いと思うことに対して一生懸命に取り組むということです。
では、此の陰徳というのが良い行いで陽徳(あらわに人に知られる徳行)というのが悪い行いかと言うと、私は必ずしもそうではないと捉えており、やらないよりはやった方が遥かに良いと思っています。
勿論、「俺は之だけのことをしたんだ!」と言って回ると、その功績自体の値打ちがある意味下がるとか人の評価において低くなり「また自慢話か・・・」というふうにもなり得ますが、やらないよりはやった方が良いことに変わりはありません。
昔から善因善果・悪因悪果という言葉があって、良いことをやれば良い結果が生まれ悪いことをやれば悪い結果が生まれるというふうに言われていますが、結局のところ良いことをやるということ自体がある意味良い結果を期待してやっているわけですから、之も陰徳とは厳密には言えないのではないかとも思います。
安岡先生におかれても、ある意味複雑軽妙な因果律「数の法則」に従って善因善果・悪因悪果というようになると言われていますが、仮に結果においてそうなることを信じてやっているとすれば、陰徳を積むということにはならないのではないでしょうか。
例えば、世のため人のために何かの施設を寄贈するといった場合、世に隠れて建設するわけにも行かず誰が作ったというのは残るわけですが、その時に名前を伏せて貰うといったことは出来るかもしれない一方で「善因善果だからなぁ~」と仮に思っていたとしたら、名を伏せたからと言って陰徳を積んだことになるのか、というのは中々難しいところです。
森先生は上記御著書の中で次のようにも述べておられますが、此の「報いを求めぬ心」を如何にして養うかについては、森先生の言葉で言えば「下坐行」ということにあるいは繋がっているのではないかと思います。

『「報いを求めぬ」境涯にいたる一つの方法は、全く人の知らない所で、なるべく多く善行を積む工夫をするということでしょう。たとえば、ご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、それを容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相をした跡を、人知れず浄めておくとか、すべて人目に立たぬところで――なるべく人に気付かれないように――善行を積むということです。』

下坐行とは何かと言えば、私は世の中で本来あるべき自分の地位等を全て捨て、自分自身の立場を一枚下に落とした所で物事をやってみることにより、自らの傲慢になる心・驕慢になる心を浄化出来るものではないかと考えています。
之は森先生が「情念の浄化」というふうに呼ぶ、ある意味人間が陥り易いそうした側面を下坐に行じ己を清めて行く中で自らを高めて行くということですが、そういう意味において自分の精神を更に磨こうという行いが何か一番良いような気もします。
即ち、先に述べたように誰見ざる聞かざるの中で善行を積んだとしても、片一方で善因善果を期待するというようなことであったらば果たして陰徳を積んだことになるのかということにもなりますから、寧ろ自分自身をどう高めるかという点において「ゴミを拾って歩きます」「便所掃除をして歩きます」といった形で下坐行の世界で生きて行く方が良いように思うのです。
唯、そうは言ってみても、善因善果を期待した行いであっても陰徳を積むことになっていなくても、「俺は之だけのことをしたんだ!」と言って回る人の行いであったとしても、全ての善き行いはやらないよりははるかに良いと思います。
従って、結果として陰徳を積んだかどうかは別にして、世のため人のためになる何かを大いに為すべきだというふうに私は思っています。なんか取り留めのない話に終始しました。

参考
※1:2012年1月26日致知出版社のメールマガジン『「偉人たちの一日一言」【健康の三原則】』




 

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