北尾吉孝日記

『移ろぐ心の定め方』

2013年3月28日 16:13
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『孟子』の中に「放心」(学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ,告子章句上)という言葉がありますが、人間はややもするとその心というものが直ぐに彼方此方に行ってしまいます。
之をどうするか、即ち時々刻々移ろぐ心を如何にして不動のものとするか、というのが東洋における長い間の修行の対象でありました。
『格言聯璧(れんぺき)』という漢籍の中に「六時心戒(りくじしんかい:鬧時・心を練る。静時・心を養ふ。坐時・心を守る。行時・心を験す。言時・心を省す。動時・心を制す)」という言葉があり、その一つに「坐時・心を守る」とありますが、「放心」を止めようという一つの答えは坐禅というものでした(※1)。
あるいは、森信三先生流に言えば「腰骨を立てる」ということで、それは移ろい行く心を身につなぎ止めるために考案された東洋の叡智といっても良い修行方法であり、古来東洋の天地にあまねく行われてきた一種の自覚的かつ最も具体的な自己確立の方法です(※2)。
之については、凡そ2年前に株式会社致知出版社から上梓した拙著『森信三に学ぶ人間力』の第三部・第二章「主体的な生き方を導く立腰道」にて述べた通り、森先生は「なぜ腰骨を立てると心のコントロールができるかというと、腰骨というのは心と離れたところにあって、これを立てる習慣を身につけることで変わりゆく心を一体化させて変わらないようにしていくことができる(中略)。だから立腰から真に主体的になるための第一歩を踏み出すことができるのである」と説明されています。
あるいは、安岡正篤先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん:忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り)」という言葉があって、その一つに「忙中閑有り」とありますが、どんなに忙しくとも「閑」を自分で見出し静寂の中で心を休め心にある意味栄養を与えるということも必要です(※3)。
「閑」という字は門構に「木」と書かれていますが、それは「門を入ると庭に木立が鬱蒼としていて、その木立の中を通り過ぎると別世界のように落ち着いて静かで気持ちが良い」ということで、故に此の「閑」には「静か」という意味があります(※4)。
また都会の喧噪や雑踏、日々沸き起こる様々な雑念から逃れ守られて静かにするということから「防ぐ」という意味もありますし、そして此の「閑」の中には「暇」という意味も勿論あります(※4)。
古代より多くの人が此の「閑」を求め時として「閑」を作り、そしてその静寂の中でふっと落ち着いた我を取り戻したり、あるいは静かな気持ちになって瞑想に耽り、放失してしまった心を取り戻すということを大切にしてきました。
『三国志』の英雄・諸葛孔明が五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中には「澹泊明志(たんぱくめいし)、寧静致遠(ねいせいちえん)」という正に遺言としての有名な対句があります。
之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」という意味です(※5/※6)。
苛烈極まる戦争が続く日々の中で、そうした遠大な境地を常に保ってきた諸葛孔明らしい実に素晴らしい言葉だと私は思っています。

参考
※1:素心・不器会「平成21年3 月18日(水)
※2:2011年2月18日『森信三に学ぶ人間力』(致知出版社)
※3:安岡正篤「一日一言」 | 致知出版社「安岡正篤墨跡集 六中観
※4:2009年11月5日北尾吉孝日記『心の病にどう対処すべきか
※5:2012年12月6日北尾吉孝日記『黙養ということ
※6:2012年5月23日PRESIDENT Online『年代&悩み別「働く意味、喜び」をどう見つけるか【40代】』(北尾吉孝)




 

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