北尾吉孝日記

この記事をシェアする

日本を創った男たち はじめにまず“志”ありき』(致知出版社)という本の「4 安田善次郎 陰徳の人」において、著者の北康利氏は「本当は人一倍情が深いのだが、商売を続けていくうち、時に非情な決断をすることも必要なのだと悟った人間こそが商売人として大成する」と述べていますが、私も此の見解は正しいと思います。
あの『草枕』冒頭には、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」という有名な一節がありますが、此の知情意を如何にバランスさせるかが非常に大事なのだと思います(※1)。
では、此の知情意の中でもどれが殊に重要かと問われれば、私自身は情意というものだと考えており、人間やはり人を愛せない者は人から愛されることもないでしょう。
結局この社会というのは正に人と人の繋がりで成り立っており、仕事に限らずあらゆる事柄が此の繋がりの中で派生して行くわけで、人が人として他から評価されるとか他を感化するといったことは、最終的に知ではなく情意なのだと思います。
とどのつまり人が動かされるのもその全ては情意だと思っていますが、だからと言って知が不必要なものだということでもなく、それも含めた形でバランスを取って成長して行くことが、人間として非常に大事なのだろうと思います。
唯、一つ認識すべきは、知の中でも単なる知識といったものは、ある意味本当の知とは言えないということです。
例えば、仏教においては赤井智顕著「大乗仏教における智慧の研究:親鸞浄土教への展開」の冒頭でも述べられている通り、『究極的に志向されるものは、悟り・解脱と呼ばれる開覚的経験である。あらゆる執着を惹き起こす人間の思惟を超えられるべき「知」であると洞察した仏教では、その超克原理を智慧(般若)の現成をもって説き示し』ています。
即ち、仏教の中では正に般若が知というものであり、終局的には悟りに至る智慧と言っても良いかもしれませんが、そうした智慧というのは中途半端な知識だけで得られるものではありません。
此の知ということについて、安岡正篤先生は「知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだから(中略)、われわれは知るということをわかると言う。(中略)だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある」と言われていますが、所謂知識人と称される人によくあるのは、何か物事を割り切ってしまうということです(※2)。
例えば、疒垂(やまいだれ)の中に知識の知を入れて「(ち):愚かなこと。また、その人」という字が出来ていますし、この原字は知ではなく疑問の疑を疒垂に入れて「(ち)」という同義の字であったわけですが、やはり割り切ってしまう知というのは、本当の知ではありません。
要するに、種種雑多な人間がいて様々な矛盾を内包する複雑霊妙な此の世の中、即ち今風に言えば複雑系というものの中で、簡単に割り切って行く知で以て、人として人と人の繋がりで成り立つ社会を上手く歩むことは出来ないということです(※3)。
先ほど此の知というのを般若と述べましたが、このように実は知というのも深い意味を有しており、そうした一つの智慧というものを身に付けて初めて、己を知り人を知ることが出来るのだと思います。
そしてまた、己をまともな人間にしようと自ら身に付けたものを行じていき、最終的には人を化して行くような人間の知というのは、知は知でも情意が含まれた知なのだろうということです。
之を一言で言えば、「天下の事、万変と雖も吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず」という王陽明の言葉が、言わんとしていることかもしれません(※4)。
此の複雑系においては、割り切りの知すなわち劃然(かくぜん)たる知では何も解決し得ずまた判断を間違うことにもなるわけで、人間社会という複雑系の中でも何とかやって行ける実践的解決策を導き出すのは、結局情意を含んだ知ということなのだろうと私は考えています。

参考
※1:2012年10月12日北尾吉孝日記『知情意をバランスする
※2:1986年6月17日『人物を修める』(致知出版社)
※3:2013年4月2日北尾吉孝日記『社会人としてのスタートを切る若者達へ
※4:2012年8月20日北尾吉孝日記『人間的魅力とは何か




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.