北尾吉孝日記

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江戸幕府・第八代将軍の徳川吉宗は、「すべて人の上にたつ時は、愚なるも智あるさまに見ゆ、下に居るものは、智あるも愚に見ゆるものなり」という忠言を残したと言われています(※1)。
つまり、下から上を見ると愚かな者でも智あるように見え、逆に上から下を見ると智ある者でも愚かなように見えるということで、此の言葉は上にも下にも通じるものです。
では、人間なぜそうなってしまうのかと考えてみるに、要は地位や能力等がある種の傲慢というものを知らず知らずの内に育てて行く、という部分があるのだろうと思います。
『論語』の「学而第一の八」に「君子、重からざれば則ち威あらず(君子は軽々しいと威厳がない)」という言葉もありますが、確かに君子というのは重厚な雰囲気を醸し出し一つの威厳を保つということが一面大事だと思います(※2)。
なぜ大事かと言えば、それはある面でリーダーシップに繋がる要素を有しているからなのですが、唯それが「傲」というふうになるのがいけないわけで、此の傲の字というのは東洋哲学の中で昔から非常に大きな戒めになっていることです。
仮に之が出てきてしまいますと、前記した吉宗の言葉にあるように自分の部下を正しく見ることが出来なくなり、また下から上に何か諌言しようと思っても言う気がしなくなりますから、結果として上は裸の王様になって行くわけです。
王陽明は『伝習録』の中で「人生の大病はただこれ一(いつ)の傲の字なり」と言い傲が「諸悪の根源」だと述べていますが、地位が上がれば上がる程この傲というものを如何に抑えるかという人間の一つの修行をやらねばなりません(※3)。
その努力の仕方としては「素行」ということ、即ち自然のままに振舞うということが大事ではないかと私は考えており、自分が正しいと感じることは堂々と正しいと言い、人の意見を聞き良いと思う時には素直に褒める、といった度量を片方で持つようにすべきだと思います。
そして、その結果として様々なアドバイスや諌言等が周りから集まってくるようになり、また下は本気で上をサポートしてやろうと思うようになって行くわけで、之こそが為政者のあるべき姿とも言えましょう。
『中庸』の中に「君子は其の位(くらい)に素して行い、其の外(ほか)を願わず…君子というものはその自らの立場・環境に応じて自らを尽くし、他の立場や環境を欲したりはしない」という言葉もありますが、昔から東洋哲学の中で言われているように、分を超えることなく「其の位に素して行い」を為すことも、それはそれで大変重要なことです(※4/※5)。
何れにせよ、夫々が己の分を弁えるということが非常に大事であって、だからこそ1年前のブログ『参謀の心得』でも述べた通り、中国では昔から「直諫(ちょっかん:主君に直言するようなダイレクトな諌め方)」と「諷諫(ふうかん:あくまでも主君に選ばせつつ上手く誘導して行くような諌め方)」というように、諌言の仕方についても随分と色々な工夫が為されていたわけです。
やはりそのような形で礼節をきちっと弁えないと、上も聞く気がしなくなるという部分もあるかもしれず、色々な意味でそうした部分も気を付ける必要があるのではないかと私は思っています。

参考
※1:Google ブックス「人生に役立つ! 偉人・名将の言葉
※2:2012年10月5日北尾吉孝日記『2013年の政治経済展望
※3:Google ブックス「中国古典一日一言
※4:古今名言集~座右の銘にすべき言葉~東洋の古典書籍「礼記 – 中庸[12.2] – 戴聖
※5:2012年8月8日北尾吉孝日記『本物と偽物




 

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