北尾吉孝日記

『陰と陽』

2013年4月18日 16:56
この記事をシェアする

先週金曜日に『情意を含んだ知というもの』というブログで御紹介した通り、安岡正篤先生は「知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだから(中略)、われわれは知るということをわかると言う。(中略)だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある」と言われています。
そして「ことわりをそのままに進めてゆくと、だんだんわからなくなる(中略)。それを救うのが結ぶという働き」だとも言われ、その働きが「わかるという働きと(中略)一緒になって、初めて生、存在、実在というものができる」と述べておられます(※1)。
此の概念を中国古典流に言うと、事の一切は「陰」と「陽」とが相待するということだと思いますが、例えば徳ということではある意味明徳が陽で玄徳が陰、草木で言うと根の部分が陰で枝葉花実が陽というふうになります。
即ち、陽の部分というのはどんどんと分化・発展して行く性質を有し、他方で陰の部分というのはそうやって分かれるものを時に統一したり時に調和させたりするような働きがあって、故に陰と陽とは何時も上手くバランスを取って創造発展して行く必要がある、というのが東洋民族における一つの基本的な考え方としてあります。
ちなみに、此の考え方は中国において食物の世界にも浸透しており、例えば身体を冷やす働きがある蟹という陰のものを食べる時、同時に体を温める生姜湯という陽のものを飲み陰陽のバランスを取るのですが、之については09年12月のブログ『東洋の食文化について』でも御紹介した通りです。
安岡先生は「機械的・理知的に頭が良いなどというのは、それだけばかになる傾向があるということです。とかく大学出の秀才が人生の実際に立っては、往々ばかになるのはこの理屈によります」とも言われていますが、此の陽の働きが活発化しどんどんと枝葉が分かれて末梢化して行くという場合、結果として何か分からないようになって行く部分が出てきます(※1)。
結局のところ、今度は枝の一部を切り取るという剪定をして行かねば、また木は大きく育っては行かないということで、量的発展を遂げ分岐して行く中では調和させて行くという部分を常に働かせる必要があるわけです。
此の分かれるということでは、例えば10年11月のブログ『今後の医学の流れに関する私の考え方』でも西洋文明の限界の一例として西洋医学に関する指摘を下記の通り行いましたが、身体という統一体を部分的に診断し症状として出てきた所だけに対処療法に徹するという形では、本質的な治療には繋がらないのではないかと私は考えています。

【現代医学というものは西洋医学の中で余りにも要素還元的になっており、例えば目が悪いと言えば眼科に行き、胃が痛いと言えば胃腸科に行き、そして頭が痛いと言えば脳神経外科医に行くというような具合ですが、そもそも身体というものは全体として一つのバランス、平衡を維持し動いているわけで中医学における脈診のような世界であります。
そのような部分を完全に捨て去る形で現代医学というものがあるわけで、私は本当にそれで良いのであろうかというように思ってきているわけです。
特に病に関して言えば、東洋医学では病気というように「気」という字を入れますが、西洋医学では恐らく疾病という世界しかないと思われます。
即ち東洋医学は心と身体のアンバランスが病気の元であるとし、それが一体化して全一性を持っているのが人間の身体であり、人間はそのような全一性をきちっと維持して初めて健康になるという心身相即的存在なのです。
これに関して昔は「健全な精神は健全な肉体に宿る」というような心身相即的なものを西洋でも言っていたわけですが、今やこのことを完全に忘れてしまっているのではないかと私は思っています。】

貝原益軒の『養生訓』を見ても、「心を平らかに、まめに手足を働かすべし」とか「心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず」という教えがありますが、東洋の考え方というものは、正に此の「心身不二(しんしんふに)」「心身一如(しんしんいちにょ)」というところにあります(※2)。
即ち、鬱病のような心の病を例に述べるならば、西洋医学であれば睡眠導入剤の処方や抗うつ薬の投与といった対処療法に徹するのですが、その一方で東洋医学の世界では心と体を一緒に治して行くというのが基本的な考え方としてあるわけです(※2/※3)。
昔は脈一つで病気の80%程度が判明するという世界もありましたが、最近では聴診器を当ててみても腹部を押してみても十分な診察とはならず、何もかもがCTやMRIあるいはPET等での検査となってしまうような具合で、更にはある意味有害な薬を医師が無闇矢鱈に処方してその副作用により別の所が悪くなるといった状況もあるという始末です(※4)。
之は、余りにも分岐して行くと結局本質が得られなくなるという一例ですが、そうして本質が得られないから逆に何とかしなければと考える中で、例えば経済学で有り勝ちな非常に単純化した経済モデルを作るといったことに繋がって行きます。
つまり、物事を全体として把握するのではなく部分的に取り出し、しかもその部分だけを更に細分化し極小化された世界だけに当て嵌まる経済モデルを構築して行く、といった20世紀型の西洋文明的方法論で此の世界を説明しようとするわけです(※4)。
しかしながら、此の社会は複雑系であり単純化しては説明しきれず、どっちに転んでも大変矛盾に満ちた此の複雑霊妙な世の中は、そう簡単に分かるものではありません。
だからこそ、「木を見て森を見ず」の世界に陥らず統一的・統合的に物事を捉えるべく、此の陽陰の原理を如何に上手くバランスさせ物事の本質をきちっと掴んで行き得るか、ということが非常に大事なのだろうと思っています(※4)。

参考
※1:1986年6月17日『人物を修める』(致知出版社)
※2:2009年11月5日北尾吉孝日記『心の病にどう対処すべきか
※3:2010年11月22日北尾吉孝日記『今後の医学の流れに関する私の考え方
※4:2011年1月27日北尾吉孝日記『21世紀に対する洞察2




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.