北尾吉孝日記

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芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で、「政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののこと(中略)少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云う」と述べ、またクラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、「軍事的天才とは、精神力の調和ある統一体である」と言っています(※1/※2)。
私見を述べるならば、政治の天才であれ軍事の天才であれ、基本的に大きな差はないというふうに捉えており、古くは諸葛亮孔明を例に見ても、ある意味軍師としても宰相としても天才だったと言い得るわけで、政治と軍事の天才を区別する要素は殆ど見出せません。
「人を動かし、世を動かすこと」が政治の本質であるとすれば、軍事においては正に軍隊を動かし、出来るだけ血を流さずに自国の国益に繋げて行くかということが要諦になりますが、此の両項目は「国益を考え、人を動かし、世を動かす」という点で全く同じだと思います。
そして世を動かす結果、政治においては単に一国が更なる物質的豊かさを享受して行くということだけでなく、一つの国の中に精神的な美風が形成されて行くということだろうと思いますし、他方軍事においては軍隊が秩序ある一つの風紀といったものをきちっと保ちながら、大将の命に従って動き任務を達成して行くということであって、共に国家国民の為ということと離れてはあり得ないものです。
昔から軍事的天才というのは、如何に血を流さずに戦わずして勝つかということを模索しながら、尚且つ如何にして国益を増して行くかということを志向するはずであり、戦争に勝ちさえすればそれで良いという人物で、天才と称される人はいないのではないかと思います。
自国民の血を流さないというところに徹するのは、相手国の血も流さないということであって、仮に戦争で勝った結果として領土・国民を得た場合、その領土や国民が安定的に秩序立って戦勝国と共に発展を志向して行くという空気が作られねばなりませんから、結局そういうことが大事なのだろうと思っています。
従って、上述した意味においては、政治的天才も軍事的天才も基本的にはイコールだというふうに私は認識しています。

参考
※1:Google ブックス「侏儒の言葉
※2:2007年11月『孫子・戦略・クラウゼヴィッツ―その活用の方程式』(プレジデント社)




 

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