北尾吉孝日記

『学ぶということ』

2013年8月16日 15:00
この記事をシェアする

学ぶということは、行じて初めて本当の学びになりますから、その意味では学んでいない人が殆どです。
学んだことを消化して己の行にする、即ちそれを体現して行く中で、ある意味血肉化するというわけです。
本を読んだり話を聞いたりして、その人から学ぶというプロセスは、知識を得て消化しただけで血肉化してはいません。
排便して終わりかもしれませんし、右耳から左耳へ抜けるだけかもしれないわけで、学んだことを行動に移さずして、血肉化することはありません。
ある人から「あぁ、人間の生き方として大事なのは、こういうことか」と学んだ後、その生き方を自分の生き方に反映させることなくして、学んだことにはならないのです。
一口に学ぶと言ってみても、誰かから教えられて学ぶとか、あるいは自らの経験から学ぶというふうに、学ぶということにも色々あります。
誰かから教えられて学ぶという場合、似たような概念で教育という言葉がありますが、教える側は教えるというだけでなく、学んだ人を今度どう育てその人の血肉にして行くかという御手伝いもあって良いのではないかと思います(※1)。
故に此の人材教育について、『論語』の「顔淵第十二の十六」でも「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す(君子は人の長所を見つけて、一緒になってそれを伸ばすのを助けてやる。それによって悪いところは目立たなくさせてやる。小人はこれと正反対である)」とあるわけです(※2)。
従って、教える人はそこまでして初めて教えを完結する、つまり教え育てることになるのだというふうに、教育というものを捉えるべきだと私は考えています。

参考
※1:2012年7月19日北尾吉孝日記『書くということ
※2:2012年5月10日『ビジネスに活かす「論語」』(致知出版社)




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.