北尾吉孝日記

『静ということ』

2013年9月5日 17:32
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「忙」という字は、「心」を表す「忄」偏に「亡」と書きます。日頃から「忙しい、忙しい」と言う人達は、ある意味心を亡(な)くす方に向かいがちです。そしていよいよそれが高じて、睡眠不足になり鬱病になるというようなこともあるわけです。そういう意味で、東洋哲学の中では「静」や「閑」ということを非常に大事にしています(※1)。
例えば、『三国志』の英雄・諸葛孔明が五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた手紙の中に「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という遺言としての有名な対句をしたためました。「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。心安らかに落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」という意味ですが、事程左様に「静」ということが非常に大事だということです(※2)。
それからまた、本当に大きなディシジョンメイキングを英断するのがトップというものであり、上に立てば立つ程つまらない事柄にぐたぐたと時間・労力を費やすということではいけません。枝葉末節のことは「任用」(任せて用いる)するか「信用」(信じて任せて用いる)すれば良いわけで、そこを勘違いして何もかも全て自分でやらないと気が済まない人は、「寧静」という状況にならず肝心要の大事が抜けてしまうということにもなるでしょう(※3)。
安岡正篤先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん:忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り)」という言葉の一つに「忙中閑有り」とあります。どんなに忙しくとも自分で「閑」を見出し静寂の中で心を休め瞑想に耽りながら、色々なことが起こった時に対応し得る胆力を養って行くということも必要なのだと思います(※4)。
此の「閑」という字は門構に「木」と書かれていますが、何ゆえ門構があるかと言うと門の内と外で分けられるということに因ります。それは「門を入ると庭に木立が鬱蒼としていて、その木立の中を通り過ぎると別世界のように落ち着いて静かで気持ちが良い」ということで、故に此の「閑」には「静か」という意味が先ずあります。また、都会の喧噪や雑踏あるいは日々沸き起こる様々な雑念から逃れ守られて静かにするということから「防ぐ」という意味もありますし、そして此の「閑」の中には「暇」(ひま)という意味も勿論あります(※4)。
あるいは「静か」ということでは、出社して喋り捲り退社してまた喋り続けるというふうに朝から晩まで喋っているような人や、言わなくて良いことをぺらぺらと話し続けるような人がいますが、特に禅などの世界では言葉を慎むということを重視しています。良寛などでも90条以上の「戒語」を残しており、言葉を慎むことを非常に大事にしていたということは、昨年12月のブログ『黙養ということ』でも御紹介した通りです。

参考
※1:2009年11月5日北尾吉孝日記『心の病にどう対処すべきか
※2:2013年8月20日北尾吉孝日記『仕事との向き合い方~20代・30代・40代・50代~
※3:2013年4月16日北尾吉孝日記『使用・任用・信用
※4:2013年3月28日北尾吉孝日記『移ろぐ心の定め方




 

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