北尾吉孝日記

『怒りというもの』

2013年10月8日 16:33
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『論語』の「雍也(ようや)第六の三」に、「弟子(ていし)、孰(だれ)か学を好むと為す・・・お弟子さんの中で誰が学問好きですか?」という魯の哀公の質問に対し、孔子が「顔回なる者あり、学を好む。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐(ふたた)びせず・・・顔淵と言う者が学問好きで、人に八つ当たりせず、同じ過ちを犯すことはありませんでした」というふうに答える一節があります。
孔子は顔淵の「学を好む」という部分だけでなく、「怒りを遷さず」という部分をわざわざ褒めて言っているわけですが、それを非常に立派な行為として孔子も見ていたのだろうと思います。
王陽明の言葉「天下の事、万変と雖も吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず」の中にも「怒」が含まれているように、怒りという感情を何らかの形で持った動物として天は人間を創りたもうたわけです(※1)。
従って、之を治すことはある意味至難の業なのだろうと思いますが、顔淵のように修養を積むことによって、少なくとも激怒しても「怒りを遷さず」ということは出来るのではないかと思います。
勿論、私も時に怒りますし、皆さんも怒りを覚えることがあるでしょうが、此の怒りということでもう一つ大事になるのは、その対象について我々は相当考えねばならないということです。
即ち、例えば「義憤(道義に外れたこと、不公正なことに対するいきどおり)」という言葉がありますが、正義や大義が踏み躙られたことに対して怒る人もいれば、そうした類とは全く関係ない私的なことで怒るような人もいます。
此の私的なことで怒るというのは、自分の好き嫌いや主義・流儀に反するといった辺りで怒るということで、それはやはり修養を以て直して行かねばならないと思いますが、他方義憤による怒り方というのは、絶対に無くなってはいけないものだというふうに思います(※2)。

参考
※1:2013年4月12日北尾吉孝日記『情意を含んだ知というもの
※2:2013年8月16日北尾吉孝日記『好きな人、嫌いな人




 

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