北尾吉孝日記

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『論語』の「八佾(はちいつ)第三の十八」に「君に事(つか)うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)えりと為す・・・主君に仕えて、臣下の礼を尽くしていると、人々はこれを諂だと言う」という孔子の言葉があります。
度が過ぎるということがこうした批判を招くことにもなるわけですが、そういう意味では孔子の言うように「過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし」(先進第十一の十六)ということなのだと思います。
また、彼は「中庸の徳たるや、其れ至れるかな・・・中庸は道徳の規範として、最高至上である」(雍也第六の二十九)とも言っており、あらゆる所でバランスを取って行くべくある意味「中庸の徳」が発揮されねばならないという言い方も出来るのかもしれません。
従って、誰から見ても媚び諂っていると思われるような余りに酷い振舞であれば礼が礼にならないわけで、周囲のみならず主君からもそういう目で見られることになってしまうことでしょう。
目上であろうが目下であろうが、人と接する時にはきちっとした礼の気持ちを持って接することが大事だということであって、『論語』の中にも例えば「詩に興り、礼に立ち、楽に成る・・・『詩』の教育によって学問が始まり、礼儀によってわが身を立て、音楽によって人格が完成される」(泰伯第八の八)という孔子の言葉や、「君子は敬して失なく、人と恭々(うやうや)しくして礼あらば、四海の内は皆兄弟(けいてい)たり・・・君子は慎み深く過ちを犯さず、人に対して謙虚で礼儀正しく、全世界の人はみな兄弟です」(顔淵第十二の五)という子夏の言葉があります。
もっと平たく現代風に言えば、地位等が如何なるものであったとしても相手を尊重するという「人間尊重の精神」ということになるわけで、そういう心を常日頃から示している人は媚び諂っているなどと言われることはないのですが、日頃はそうでなく権力や金を持っている人等との交わりの仕方に限って、阿ているのが見え見えな人が周りから嫌われるのだと思います。
だからこそ、『論語』の「公冶長(こうやちょう)第五の二十五」に「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず」とあるように、左丘明も孔子も「人に対して巧言すなわちお世辞を並べ、令色すなわちうわべの愛嬌を振りまき、足恭すなわち過ぎた恭しさを示すのは恥ずべきことである」としたのだということです。




 

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