北尾吉孝日記

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今年8月のブログ『学ぶということ』では、人材教育の在り方として『論語』の「顔淵第十二の十六」にある「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す(君子は人の長所を見つけて、一緒になってそれを伸ばすのを助けてやる。それによって悪いところは目立たなくさせてやる。小人はこれと正反対である)」という言葉を御紹介しました。
そして、教える人はそこまでして初めて教えを完結する、つまり教え育てることになるのだというふうに教育というものを捉えるべきだと述べましたが、上記「悪いところ」そのものに対する処し方ということでは、如何に考えるべきでしょうか(※1)。
「短所があるなら短所を直そう!」という教育の仕方をする人が大勢かと思われますが、中には上記した君子のようなやり方が寧ろ正しいと考える人もいて、どちらが良いのかは対象者の特質に拠るところも多くあるように思います。
私見を述べるならば、此の長所を伸ばすことにより短所が消えてなくなるか或いは抑えられて行くといった形で、短所に変化を及ぼすということは間違いないと思われ、故に長所を出来るだけ伸ばすという教育方法が基本的には正しいのだろうと考えています。
例えば、親が子供に対して或いは先生が生徒に対して、毎日のように「あれが悪い」「これが悪い」と朝から晩まで短所を責め立ててみて、彼らの短所が直って行くという経験をした人は果たしてどれだけいるのでしょうか。
結局短所にしても誰が直すのかと言えば、自分で気付き自ら反省をし、そして自分自身が直して行く以外ないのであって、人間とは自らの意志で自らを鍛え創り上げて行く「自修の人」なのです(※2)。
それがもし正しいとするならば、自らが自らを創り上げ築いて行くべく、己を変えようと思っていない人に対して、その短所をどれだけ指摘し続けたとしても、そこに変化は起こらないでしょう。
他方、毎日のように「あれは凄くよかったね」「これは素晴らしいね」と誰かを褒めるという場合、褒められた人は皆良い気持ちがするでしょうし、もっと努力して行こうと思うはずです。
だからこそ、君子は「人の美を成す」として長所を伸ばすのを助けてやり、一緒になってそれを磨いてやろうとするわけで、そうすることでその人自身がそれを磨いて行くようになるのです。
例えば、ノーベル賞受賞者にしても京都賞受賞者にしても、そういう人の殆どは一芸に秀でた人でありますが、彼らの話を聞く限りにおいて、彼らは人間として全てに通ずるものを持っていると思います。
勿論、その人達には素晴らしい才能もあったのだとは思いますが、皆夫々がひたすら一道に打ち込み、それだけの努力を積み重ねてきたからこそ一芸に秀でたのであって、やはりそうした努力や人知れぬ苦労によって人間が練れてき、結果として短所というのが自然と隠れて行ったわけです(※3)。
2年程前に『岡潔著「日本民族の危機」について』というブログを書いたことがありますが、数学者として一芸に秀でていた岡先生などを例に見ても、関心を持たれていた仏教や教育といった全く違う分野において、晩年様々な論文を書かれ素晴らしいものを残されています。
更に言うと、例えば日本人として初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹氏にしても、評論や文章等を色々見ますと、物理学者でありながら素晴らしいものを残されているわけで、一道において苦労をし知恵を絞るということをした人は、やはり他のことにおいても段々と磨かれて行くのだと思います。
即ち、そういう魂の修練なしに人間というのは一芸に秀でるはずもないわけで、そういう意味では「人の美」を追求し褒めてやりながら、それを余計に伸ばして行くという方が、結局はその人の短所が消えることにも繋がって行くのだろうと思います。

参考
※1:2013年8月16日北尾吉孝日記『学ぶということ
※2:2013年3月13日北尾吉孝日記『教養人たる3つの条件
※3:2012年11月12日北尾吉孝日記『偉大なるかな稲盛和夫




 

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