北尾吉孝日記

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昨年9月に「『致知』創刊35周年記念講演会&パーティーで話したこと」というブログを書きましたが、その『致知』の2014年2月号に日本将棋連盟会長・谷川浩司さんと囲碁六冠・井山裕太さんの対談記事「この道、一筋に生きる」があります。
その中で谷川さんは、「一人ひとりが持っている運の量っていうのは平等だと思うんです。そして、運が悪い人というのは、つまらないところで使っているんじゃないかと思うんです。(中略)最後の最後、一番大事なところで運が残っているかどうかというのが非常に大事だと思うんです」と話されています。
運ということでは、私も『成功する人、失敗する人』(2011年6月8日)等のブログで述べたことがありますが、私の考え方としては「全員が一定量の運を持っていて、その一定量が無くなるに連れて運が悪くなって行く」といった上記した類ではありません。
運というのは、日々の努力を通じた研鑽を惜しみなくやりながら、常に知性や感性を磨き働かせ続けると共に、その感性に含まれる一つの情意といった部分も発達させて行く中で、やはり自らが主体的に掴み生かして行くものだと思います(※1)。
従って運の量は皆平等ということでなく、ある人にとっては無尽蔵の如く使えるものだと私は考えていて、運を掴み生かして行く人は御縁というものをどんどん頂き増やして行くことが出来る人だと思っています。
5年前の11月『縁について』というブログの中で、私は柳生新陰流の柳生家家訓にある「小才は縁に出会って縁に気づかず。中才は縁に気づいて縁を生かさず。大才は袖振り合う縁をも生かす」という、非常に味のある言葉を御紹介しました。
世の中には縁があるにも拘らず縁を生かせない人、縁に気づかない人が沢山いる一方で、「袖振り合うも多生の縁(=擦り合うも、触れ合うも、触り合うも)」と言いますが、僅かな縁をも生かせる人もいます(※2)。
柳生家では、それが小・中・大の才により分けられているのであって、「多逢聖因(たほうしょういん:いい人に交わっていると良い結果に恵まれる)」ということが言われるように、やはり様々な人に御縁を頂くことが、良き運に出会う切っ掛けとなり、運を掴み生かす切っ掛けにもなるわけです(※3)。
あるいは、上記ブログでも「縁尋機妙(えんじんきみょう:良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展していく様は誠に妙なるものがある)」という言葉を御紹介しましたが、運というのは味方につけるとか無駄遣いしないといったものでなく、そういう機妙な状況を主体的に創り上げねばならないものです(※3)。
そういう意味で言うと、運とは常に自分が主体的立場に立ち、その与えられたチャンスをどう生かすかということであって、味方になってくれるか否かといった敵・味方の話ではありません。

参考
※1:2012年10月25日北尾吉孝日記『感性を高める
※2:2009年11月4日北尾吉孝日記『縁について
※3:2012年10月2日致知出版社のメールマガジン『「偉人たちの一日一言」【縁尋機妙 多逢聖因】』




 

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