北尾吉孝日記

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情報誌『選択』(14年03月号)の記事「国家衰退と改革の法則」には、「何が衰退を引き起こし、それに対するには何を行うべきなのかを冷徹に究明しなければならない」ということが書かれています。
そして一つの見方として、『古代ローマから現代のアメリカに至る帝国と大国の衰退の共通法則を、「経済と政治のバランスの喪失」という視点から分析し、(中略)そこでの病理は「内的停滞と権力の集中、現在への耽溺による未来の犠牲を直視せず、その改革に抵抗する」政治的機構(political institutions)に囚われた政治に帰着する』との指摘が紹介されています。
3年程前のブログ『「坂の上の雲」のテレビドラマ化』の中で、私は「一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ」という中国古典の『文章軌範』にある言葉を御紹介した上で、「人材、人物というのはそれ位大きな力を持ち得るものであり、その国の全てを決めて行くという側面もある」と述べたことがあります。
あるいは4年半前『企業の盛衰を左右する要因とは何か』というブログにおいては、「結局会社を成長させるためには経営者が自分自身を練って行くしかないと私は思っています。そして自分自身の人間力を増して行けば、会社の器も大きくなるのではないかと考えています」と書いたこともあります。
要するに国であれ会社であれ、その衰退というのはトップの在り方一つで決せられるものであり、先ず以てトップが如何にして自分の人物・知性を磨き、判断力・直観力を養ってきたかといったことに全て関わっているのだと思います。
また下記引用は、拙著『人物をつくる―真の経営者に求められるもの』(PHP研究所)の「真の指導者たる人物とは」と題したパラグラフで述べたものですが、結局人望が無いということになってくると、トップの座から追われて行くということにもなりましょう。

【孟子は、どのようにして人が天子になるのかについて、このような言葉を残しています。
「天授け、人与う」。
天が天命という形で授け、人民が与うという形で、人は天子になる、指導者になると言っているわけです。
自分で天子になりたい、指導者になりたいと思っても、必ずしもなれるものではありません。
逆に、天子になどなりたくない、指導者などに絶対になりたくないと思っても、そうならざるを得ないこともあります。
このようにしてなった指導者が、真の指導者なのです。
そして、全責任を持つ指導者であるならば、最終的な決断は絶対です。
このように考えると、これは天が与えたようなものだということです。
同時に、指導者になるためには、人が与うという要素も必要です。
「人与うを忘れると、その民を失う。その民を失う者は、その心を失えばなり」という言葉があります。
なぜ民を失うのかと言えば、民の心を失うからです。
「民の心」とは、言い換えれば、「人望」ということです。人望の源は、言うまでもなく人徳です。
人徳のない人には、人はそのようなポジションを与えないのです。
そして、仮に人徳のない人が指導者の地位になったとしても、すぐに組織は機能しなくなります。人徳がなければ指導者になりたいと思ってもなることができず、仮に指導者になっても、人徳がなければ退かなければならなくなります。
そうしなければ、組織が持たなくなるのです。】

中国の栄枯盛衰の歴史を見ていますと、やはり皇帝が悪ければ周りにいる参謀も「佞人(ねいじん:口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)」が主となり結局国は亡びていますし、片やトップが良ければ「貞観の治(じょうがんのち)」という唐の太宗の治世のように、その時代に合う素晴らしい部下達を側近に就け世を上手く治めて行くということも出来るわけです。
5年半前のブログ『適者生存』(Survival of the Fittest)の中で、私は『ダーウィンの「進化論」に触発されたハーバート・スペンサーという英国の哲学者が「社会進化論」を唱え、「適者生存」という言葉を作りましたが、このthe Fittestになり、サバイバルゲームに勝ち抜くためにどうすれば良いかについて、2つのことを再認識しました。一つは、環境変化を先取りすることです。(中略)もう一つの手は、変化を受け止め、変化に順応し、変化の中で生きていく方策を見つけることにあります』と書きましたが、やはり之すべて此の時代と社会に適応しその変化をある程度洞察出来るトップであるべきですし、そういうことが出来ないトップであれば国であれ企業であれ末は破滅の道を辿るわけです。
皇帝の時代ならいざ知らず選挙で指導者を選んで行く時代においては、例えば嘗てドイツ国民が国を破茶滅茶にしたヒトラーを指導者としたように、間違ってトップを選んでしまうということも勿論あります。
ある大学教授は「人類史上典型的かつ最大のポピュリズムは、アドルフ・ヒトラーに独裁権を与えたドイツ国民の政治判断に拠るものだ」と言われていますが、此のポピュリズムの危険性ということでは、5年前のブログ『国会議員の世襲制限について』において私も下記の通り指摘しました。

【民主主義の最大の問題点は、昔から言われるように衆愚政治に陥る可能性があるということです。衆愚政治とは、結局人気制度であり、ある種のポピュリズムです。従って、そこでは政策はほとんど意識されず、全く経験も無ければ能力も無さそうに見える候補者が通ってしまいます。そのような人間が指導的立場につくということを、私はとても問題視しています。究極的には独裁主義で、独裁者が最善の人間であれば世の中が最も上手く機能するとは思いますが、社会システムとしてそれは不可能ですので、次善のシステムとして現代は民主主義がほぼ定着しています。そして、絶対多数決による最大公約数により物事が決まっていく世の中ですので、何とも言えない部分もありますが、民主主義とはそういうシステムですので、その弊害を避けようとするならば、やはり有権者のレベルを上げると言うことが必要になります。朝から晩まで「一億総白痴化」に誘うようなテレビ番組ばかりを見て、読書とは凡そ縁遠い人が投票したり、あるいは知り合いや団体の依頼で投票を行うということでは、その弊害を避けることは出来ないと思います。「国会議員は国民が投票により決めることであり、世襲制限することはおかしい」というような意見もありますが、現在の日本の政治のレベルが低いのは結局は投票権を持つ国民のレベルが低いからであります。衆愚政治に陥らないためにも国民一人ひとりが民主主義という社会システムを理解し、日本の政治のレベルを上げる為に行動することが必要であると思っています。】

そしてまた、正論を吐く一握りの人達が数の力によって埋没し間違った事が正しい事のように扱われ結局のところ通ってしまう、という問題を内包する此の民主主義という制度を採用して行く限りにおいては、上記引用にある通りどうしても一般大衆のレベルを上げねば良き政治は成り立たず、そのレベルを上げるためにはやはり彼らを先導するオピニオンリーダーたるべくエリート層の存在が不可欠になります。
昨年5月のブログ『今日本に「この人民ありてこの政治あるなり」』においても、私は「歴史を見れば、そうしたエリートの養成を怠る国においては、殆どと言って良い程まともな政治は執り行われていないと言っても過言ではありません。(中略)広く教養を身に付けて学問をする中で中庸の精神やリーダーとして求められる他の様々な資質といったものを磨いて行く、あるいは実社会での日常生活において常に事上磨錬し知行合一的な修養を積み重ね自己人物を練り更なる精神の向上を図って行く、というようなエリートの集団が無かりせば衆愚政治に陥らざるを得ないということです」と指摘しました。
エリートを養成するとは正に『論語』の「子張第十九の六」にある言葉、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う(博く学んで、志をしっかりと定め、疑問に突き当たったら機を逸せず人に教えを請い、現実の問題をじっくり考える)」ということではないかと思いますが、何れにしても我々は一国において此のエリート層を如何に厚くし様々な分野で国民を導いて行くことが出来るか、といった観点からも教育ということを考える必要があるのだろうと思う次第です。




 

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