北尾吉孝日記

『善人はあるがままに』

2014年3月20日 17:28
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今週月曜日、私は「今日の安岡正篤(84)」として「元来悪人というものは、悪の特徴で積極的・攻撃的であり、よく団結します。それで悪い奴は一人でも、あいつは悪党だと言う。それくらい攻撃力・団結力が旺盛です」、「しかし善人には善党という語はありません。どうも善人は自分を省みるものですから、自然に引っ込み思案になり、傍観的・孤立的になって時機を失い、よたよたしているうちに、悪人の攻撃力と団結力に負けてしまいます」とツイートしました。
実は此の『善人と悪人』に関する興味深い記述は、2年半程前にも当ブログで別の形で御紹介したことがありますが、安岡正篤著『偉大なる対話―水雲問答』では上記に続けて「善人が負けた例は、日本ばかりでなく世界の諸国をみてもたくさんあります。その原因をこのように深く考えますと、善人は機敏性に欠け、意気地がありません。『論語』にも孔子は頻(しき)りにこの敏を説いて、言は訥(とつ)であってもよろしいが、行は敏でなければならぬと教えております」と書かれています。
このように本書では善人のある種の問題点を指摘されているわけですが、ではそれを克服すべく善人が変わる必要性があるかと考えてみるに、非常に難しいところではありますが、善人はあるがままで良いのではないかと私は思っています。
と言いますのも、それを善人について、見るからに簡単に騙されそうな・人がよさそうな人間のイメージというものを多くの人が有しているかと思いますが、仮に善人が妙なふうに機敏に活動的になり、てきぱきと何かをやり出したとなれば、最早それは善人とは言えない雰囲気を醸し出すようなことになるのではと思われ、善人に見える人はそのままで良く敢えて変える必要性はないだろうと思うわけです。
上記したように『論語』の「里仁第四の二十四」には「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す・・・君子は言葉がゆったりして慎み深くても、素早く実行しなくてはならない」という言葉があり、孔子は「行に敏」ということを結構色々なところで言っていますから、彼自身そういうふうに思っていた部分は基本あるかもしれません。
但し、孔子というのは夫々の弟子に向けて夫々に合うことをカスタマイズして伝えていたわけで、上記に関しても何時も行いがぐずぐずしている弟子の一人に対しての言であり、必ずしも善人に対してのそれというものではないのだろうと思います。
例えば、嘗て当ブログでは『論語』の中の「吾(われ)回と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるが如し。退きて其の私(し)を省(み)れば、亦(また)以て発するに足れり。回や愚ならず」(為政第二の九)という孔子が高弟の顔回を評した面白い話、即ち「顔回と一日中話をしていても、なんでも『はいはい、はいはい』というばかりで、一切反論しない。その様子はまるで愚か者のようだ。しかし、顔回の普段の様子を見ていると、私の言葉をしっかり守って実行している。そういうのを見ると、顔回は愚かじゃないな」という孔子の言葉を御紹介したことがあります(※1)。
あるいは、『論語』の「先進第十一の十八」に「柴(さい)や愚。参(しん)や魯。師や辟。由や喭(がん)」という言葉もありますが、一番弟子の顔回が生きていれば孔子を継ぐのは勿論顔回なのですが、顔回は孔子より先に死んだが故、結果として参(曾子)が実質的に孔子を継ぐことになりました(※2)。
つまり孔子の言葉にある通り、最終的に孔子を継ぐことになる曾子は魯(のろま)であり少し愚鈍なのですが、鈍であるからこそ、それだけ毎年積み上げて行く努力をして多くを身に付け、結果として偉大なものを残して行けば良いのであって、天才である必要性もなければ鈍であっても全く構わないということだと思います(※2)。
そういう意味では、例えば共に英国の哲学者であるフランシス・ベーコンとジョン・スチュアート・ミルに関して、前者は天才で後者は天才ではなかったというふうにも言われますが、実際ミルは非常に素晴らしい業績を後世に残し、ひょっとしたらベーコンを凌駕するものを残したかもしれないわけで、やはり一番大事なのは「努力をし続ける」ということだと私は考えています。

参考
※1:2014年1月31日北尾吉孝日記『聞き、消化し、思い、発する
※2:2013年3月21日北尾吉孝日記『大器晩成、小器夙成




 

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