北尾吉孝日記

この記事をシェアする

何を以て人を罰しその関係性を疎にして行くか、何を以て人を許しその関係性を再構築して行くか、そういった類の判断は大変難しい問題です。
『韓非子』の中に「信賞必罰」と昔から言われる一つの考え方がありますが、先ず以てその原理原則はやはり公平公正ということでなければならないのだろうと思います。
それからもう一つの原理原則として、その事自体の大小の程度あるいは「小過を赦す」ことに通ずるような程度か否かといった、事の重大性という観点から一つ判断されねばなりません。
『論語』の「子張第十九の三」に「君子、賢を尊びて衆を容(い)れ、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわれ)む」とあるように、リーダーの態度としては賢人を尊び一般の人々も包容し善人を称える一方で、能力の劣った人も憐れんで行くというものが在るべき姿です。
また更には、例えば「直(なお)きを以て怨みに報い」という孔子の基本的な考え方に対し、「怨みに報ゆるに徳を以ってす」という老子流の考え方がありますが、老子が言うように不徳にも徳で以て報いるべきかはもう一つの判断です。
孔子が表現するというのは公正公平を指しており、之もある意味一つのニュートラルな世界に立つことを意味しているわけで、須らく此の直を追求して行くことなしに中庸の世界には到達し得ません。
判断として孔子流で下すか老子流で下すかは、結局そういう意味で考え方の基準を何処に置いて為すかという話でありますが、それと同時に必ずしも下されたその判断の是非は常に言い切れるものでなく、そうした部分がまた難しいのだと思います。
とは言っても、拙著『ビジネスに活かす「論語」』(致知出版社)の第三章「いかにして会社を発展させていくか」の中でも、「信」「義」「仁」という三つの漢字で表されることを以て私の判断基準としていると述べましたが、目先の状況変化に右往左往せぬよう確固たる判断基準を持つこと自体は非常に大切です。
しかし、そうした基準を持ってブレない判断を心掛けたところで判断は間違うことがあります。最近では「1966年に静岡県で起きた強盗殺人事件の再審開始決定で47年7カ月ぶりに釈放された」袴田巌さんを巡る事件、所謂「袴田事件」が先ず一つその象徴事例として挙げられると思います。
また、昨年12月に死したネルソン・マンデラのように、1962年に政治犯として投獄された後法律も変わり、27年に及ぶ服役を経て遂には大統領となり、「南アフリカの父」と称されるようになった人もいます。
あるいは、生涯2度の流刑に処された西郷隆盛においては、奄美大島への一度目は薩摩藩の配慮ですから実質的に島流しとは言い難いのかもしれませんが、徳之島・沖永良部島への二度目に関しては完全な流罪でありました。
しかしながら、此の島流しが彼の人間というものを創る上で、実は大変プラスに作用したという側面もこれまたあるわけで、彼のケース同様に結果として見た時に、果たして事の是非や如何にというのは此の世に沢山あることです。
そうした延長線上で善悪の判断というものを考えてみても、何が善で何が悪かはその対象事案を如何なる形で見るかといった、その時々の見方によって全てが決まるような状況ですから、之も人間の為すところ必ずしも間違いがないわけではありません。
仏教においては『歎異抄』に有名な一節、「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや…善人でも往生とげるのですから、まして悪人は往生出来ないはずがない」とあるように、「善悪一如」という考え方もその世界にはあります。
あるいは、拙著『日本人の底力』(PHP研究所)でも指摘したことですが、そもそも人間の差などというものは「賢愚一如…賢い人も愚かな人も皆同じようなもの」であって、天から見て相対的に同列の人間同士が、「片一方は賢く、片一方は愚か」としてみたところで殆ど意味を為しません。
即ち、我々人間を創りたもうた絶対神から見れば、人間の知恵なぞ所詮微々たるものであり、また此の狭い人間世界における善悪の差などというのも、ある意味大したものではないのです。
例えば、人殺しは悪だと考えるのが大多数であると思いますが、では国と国とが戦争をして多くの人が血を流し、そしてその中で全くの民間人が犠牲になるというような正に組織悪とも言われる大量殺戮を以て、その善悪はどう捉えられるべきでしょうか。
個人の場合であれば人ひとりを殺害すれば殺人罪が適用されますが、国家においては誤った大義名分の下で行った戦争(e.g.イラク戦争)で人が殺されても誰も罰せられませんし、御負けに大量殺戮により勲章まで貰えるのですから如何にも可笑しな話です。
戦勝国が善となり敗戦国が悪となって御裁きを受ける、というのも一体どういうことかと思われ、確かに悪というものはあるにはあるのでしょうが、人間が之は善で之は悪などと断定してみたところで、絶対神から見れば実に「善悪一如」「賢愚一如」なのです。
従ってそういう意味では、善悪の判断自体が極めて難しいことだと言えないでもなく、様々な事柄全体を考えてみますと、一体何が本当に正しくて何が正しくないのか、良く分からない部分があるようにも思えてきます。
但し、『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、人間である以上みな良心というか明徳というものがあるわけですから、やはり最終的には此の明徳に頼って自分の明徳に聞き、そして自問自答する中で物事を判断するしかないのだろうと思います。




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.