北尾吉孝日記

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「上司のことを思い遣る」「上司を訪ねて来る御客様のことを思い遣る」といったように、細かな神経を使って配慮するという丁寧な姿勢なかりせば、仕事においてもその多くが中々上手くは行かないでしょう。
此の丁寧さの有無というのは、イコール思い遣りの心すなわち「仁」の心を持っているか否かによるものですが、そうした細かな配慮が出来るかどうかを見れば、その人が仕事ができるか否かが判断できると言っても過言ではありません。
例えば、司馬温公(司馬光)の『資治通鑑(しじつがん)』には、「才徳全尽、之を聖人といい、才徳兼亡、之を愚人という。徳、才に勝つ、之を君子といい、才、徳に勝つ、之を小人という(才と徳が完全なる調和をもって大きな発達をしているのは聖人である。反対にこれが貧弱なのは愚人である。およそ才が徳に勝てるものは小人といい、これに反して徳が才に勝れているものは君子という)」という言葉があります。
1年程前のブログ『「ダメ社員」の見分け方』でも述べたように、自分自身が浅学菲才であったとしても、徳を身に付けておけば周りに同じような徳性の高い優秀な人が集まって来、その人ひとりだけの成果では計り得ない部分を顕在化させることもあるわけで、正に「徳は孤(こ)ならず。必ず隣(となり)あり…徳のある人は決して孤独ではなく、必ず志の同じ人がいるもの」(里仁第四の二十五)だということです。
それ故いつも丁寧な姿勢で以て物事を対処できる仕事ができる人間というのは、上記した仁の心を十分に持った人間であることが多いのですが、同時に表面上丁寧ではあるものの褒め殺しと同じような類で慇懃無礼(いんぎんぶれい)ということも一方であって、常に100%そう言い切れるというわけでもありません。
『論語』の「公冶長(こうやちょう)第五の二十五」にも「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず…美辞麗句を並べ立てたり、過度にへりくだった態度を左丘明は恥じたが、私も恥じる」とあるように、孔子は『論語』の至るところで、君子と雖も「礼」を尽くすこと・慎み深く丁重であることが大切だと述べているのですが、同時にそれは行き過ぎたら「足恭」になり恥ずかしいことだというのです。
此の「過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし」(先進第十一の十六)というのはあらゆるところに表れていて、例えば穏やかに和気藹藹とした雰囲気で皆が仲良く仕事をしている組織は一見良さそうに思うかもしれませんが、そこには秩序やけじめというものがなく物事は中々上手くは行きません。
故に『論語』の「学而第一の十二」に「和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦(また)行わるべからず」とあるように、「和」が如何なるものかを知り実際「和」している中であっても部長が居て次長が居て課長が居るわけですから、「礼」により何処かにきちっとした「節」・けじめがなくては何事も上手くは行かないのです。
之も中庸の考え方に根差したものと言えましょうが、上記に関しても同様に丁寧だと言ってみても足恭になってはいけないのであって、そしてまたそれは、中庸のバランスが取れた丁寧さでなければ駄目であるということです。
「恭にして礼なければ則ち労す…丁寧なだけで礼がなければ徒労に終わる」(泰伯第八の二)とか、「礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる」(伊達政宗五常訓)とも言われるように、何事につけバランスが必要でありバランスの中から調和が生まれてくるのです。




 

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