北尾吉孝日記

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先月発売された月刊『THE21』6月号の連載『トップの戦略眼:北尾吉孝の「タフの哲学」下』にて、インタビュー記事『相手を思いやりながら「正・反・合」を作り上げよ』が掲載されました。
当該記事においては、「野村證券の社長になろうというお考えはなかった?」とのインタビュアーの質問に対し、私が『野村のような大きな組織に入る以上、一定レベル以上のポジションにならないと自分がいる意味はないとは思っていました。常に「鶏口となるも牛後となるなかれ」という生き方をしようと考えていましたが、社長になるならないというのは運ですから、なろうと思ってなれるものではないでしょう』と答えた箇所も載っていました。
此の『史記』にある言葉「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)」とは、「大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよいということ」ですが、私は私の生き方として「寄らば大樹の陰…同じ頼るならば、勢力のある人のほうがよい」というような生き方はしたくはなかったということです。
私の生き方すべてに貫かれているのは「主体性」ということで、私は此の主体性を何よりも大事にした生き方を貫いてきたつもりであり、「君子に三畏(さんい)あり」(李氏第十六の八)とあるように、天命を常に意識し、大人・聖人の言に畏れを抱きながら自分を律し、確固たる主体性を有した自己を確立できるように努力してきたつもりです。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず・・・君子は調和をとっても同調して徒党は組まないが、小人は徒党を組んで同調しない」(子路第十三の二十三)というように、付和雷同する小人的な人は自分の主体性や自分の明確な主義主張を持たない人で、仮に持っていたとしてもそれを明らかにせず都合に応じて調子を合わせるような人で、私自身こうした類の人間は余り好きではありません。
『論語』の「衛霊公第十五の二十一」に「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」という言葉がありますが、周りに責任を求めるのは小人の在り方であって、取り分け人のリーダーとなるべき君子は、全ての責任は自分にあることを自覚せねばならず、「○○が悪いから」などとは決して言ってはなりません。
此の責任の所在を常に自らに置くという考え方は東洋思想の根幹にあるものだと思われ、裏を返せば「人たるもの、きちんと主体性を確立せよ」と言うことですが、その責任をとる代わりに自分の意志・判断によって、ありとあらゆる事象に対し能動的に行動して行かねばならないのです。
「決して人の尻尾にすがり付いては行かない」「自らに全責任を帰して己が反省し、自らの人格を高めて人を感化して行く」―――之が良いとか悪いとかという話ではなく、之こそが私の求めてきた生き方であります。




 

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