北尾吉孝日記

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『論語』の「顔淵第十二の六」にも、子張が孔子に「賢明とは何か」について尋ねる章句がありますが、此の問いに対しては先ず「何が賢で何が明か」ということから話して行かねばなりません。
此の賢と明に関しては、例えば『老子』第三十三章にも「知人者智、自知者明:人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり…人を知るのは智者に過ぎないが、自分を知るのは最上の明とすべきことだ」という言葉があって、知と明というところを老子は明確に区別しています。
言うまでもなく知というのは極めて重要なものでありますし、知を身に付ける必要性というのは大いにあるわけですが、それと同時に拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)でも指摘した通り、頭だけで把握していても本当に分かったことにはなりません。
安岡正篤先生も「単なる頭ではなく身体で、生命で全精神でこれを把握する必要がある」と言われているように、宇宙の本質は無限の創造であり変化であり行動であるが故、知だけでは到底真理は会得出来ず、行動・実践を伴わなければなりません。
つまり陽明学流に言えば、王陽明の『伝習録』の中に「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という言葉がありますが、知と行とが一体になる「知行合一」でなくして真理を得ることは出来ないということです。
従って、先ず知というものがなければならず、そして知と行が相俟って知行合一的に動いて行く中で初めて、此の知は身体が経験するものになり身に付いて行くというわけで、そうして初めて上記した明の方向に進んで行くという意味では、明を創り出すものはある意味知と行と言えるのかもしれません。
『大学』に「明徳を明らかにする…自分の心に生まれ持っている良心を明らかにする」とあるように、此の明というのは全ての人々が母親の胎内に宿った時から有しているものだと言う人もいます。
本来人間は皆「赤心(嘘いつわりのない、ありのままの心)」で無欲の中に生まれてきているにも拘らず、段々と自己主張するようになり私利私欲の心が芽生えてき、そして此の明徳が私利私欲の強さに応じて次第に曇らされ、結局は明がなくなって行くということにもなります。
故に老子は「含徳(がんとく)の厚きは、赤子(せきし)に比す…内なる徳を豊かに備えた人の有様は、赤ん坊に例えられる」と言い赤心にかえれとし、また孟子は「大人(たいじん)なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり…大徳の人と言われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純真な心を失わずに持っているものだ」と言っているわけで、孟子のように性善説を唱える者こそ本当の明徳であり明であるとしています。
拙著『北尾吉孝の経営道場』(企業家ネットワーク)でも御紹介した通り、安岡先生におかれても「人間は自得から出発しなければいけない。人間いろんなものを失うが、何が一番失いやすいかというと、自己である。根本的・本質的に言えば、人間はまず自己を得なければいけない。人間は根本的に自己を徹見する、把握する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、根本問題である」と仰っています。
昔から自分自身を知るということを、儒学の世界では「自得(じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む)」と言い、仏教の世界では「見性(けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める)」と言いますが、之こそ正に明であって知と明とはまるっきり違っているのです。
此の世のあらゆること全ては、人間が生み出し人間が行っていることですから、自分自身も含めた人間というものを知らずして、大したことは成し得ません。
上記「自らを知る者は明なり」と述べた老子のみならず、ソクラテスも『アポロン神殿の柱に刻まれていた「汝自身を知れ」の言葉を自身の哲学活動の根底におき、探求した』とされていますし、ゲーテについても「人生は自分探しの旅だ」と言っています。
自分自身を知るということ程難しいことはなく、またそれが如何に重要であるかについては古今東西を問わず先哲は諭しているのであって、そうしたことを分かろうとするのが学であり修行であり、その為に人間学を勉強するのは大変結構なことだと思います。




 

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