北尾吉孝日記

『偉くなること』

2014年7月4日 16:30
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『致知』の2014年6月号の中で、「偉くなることは必ずしも富士山のように仰がれるためになるのではない。なるほど富士山は立派だけれど、それよりも立派なものは大地である。山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せて敢えて厭わない。常に坦々としておる。この大地こそ徳である。われわれもこの大地のような徳を持たねばならぬ」という安岡正篤先生の言葉が紹介されていました。
偉くなるということで言えば、世俗的成功を以て人を偉いとする傾向、あるいは世俗的な「失敗者」を駄目な人だとする傾向は昔からあるものです。今年3月のブログでも御紹介した「一貴一賎(いっきいっせん)、交情乃(すなわ)ち見(あらわ)る」ということも現実には多く見られます。
ちなみに此の『史記』にある言葉は、前漢王朝の時代の翟公(てきこう:前二世紀頃)という人の話です。司法長官になったかと思うと左遷され、暫くするとまた司法長官にカムバックするという波乱に満ちた人生を経験しました。司法長官でいる時には、色々な人が屋敷にまで押し掛けますが、左遷されると誰も来なくなります。そしてまたカムバックすると、色々な人が屋敷にやって来るという状況で、翟公が地位の上下で皆さんの御付き合いの心が良く分かるものだと屋敷の門に書き付けた文句です。
こういうふうに世俗的成功を偉くなることと結び付けて考えるのが多勢である一方、人の偉さというものを一言で言えば「人間としてどうなのか」という観点で規定する人も中にはいて、それは対象者の社会的なアチーブメントは兎も角その人が出来る範囲での、社会に良いこと・人に良いことに対する一生懸命な努力・献身的な姿を見、その偉大さを判断するものです。
例えば、森信三先生は下座の行をすすめておられますが、此の下座行とは元来「下座」ということで一般の人々より下位につくこと、即ち自分本来の社会的地位を一つ下に置き、その地位に安んずる中で、時とすれば自分自身の偉ぶる気持ち・驕り高ぶる気持ちを抑え、「高慢」になることを免れるべく、我が身の修行に励むことを言います。
ゴミ拾いというのも此の下座行の中に入るわけで、今の世においては自宅前だけ掃除をし隣近所へそのゴミを持って行くような人も散見されますが、そうではなくて自分が掃除する時に隣近所も序でに綺麗にしておく、といった親切心を有する人が人間として立派だと思います。
あるいは、隣家に住む年寄りにとって此の雪掻きは難儀であろうと思う時、当たり前のこととして「若い自分が隣の御爺・御婆の分までやっておこう」と考える人こそが、偉いのだと思うのです。
私が言わんとするところは、先ず我々は世俗的成功を以て人が偉いと判断するのを止めねばならないということであり、人の偉さとは「人間としての生き方」を以てして判断されるべきだということです。




 

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