北尾吉孝日記

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勇気ということに関して、フランスの小説家・スタンダールは、「イタリア人の勇気は怒りの発作であり、ドイツ人の勇気は一瞬の陶酔であり、スペイン人の勇気は自尊心の現れである」と言っています。
ある意味での「ナショナルステレオタイプ(national stereotype…国[国民・国籍]に関連する固定観念」を瞬時に掴んで表現するという、流石にスタンダールらしい天才的才能が良く溢れた一つの言葉だと思います。
では「日本人の勇気とは?」と聞かれますと、之は大変難しいテーマで単純に定義できるものではないと思いますが、私見として武士道あるいは更に遡って儒学といったところにやはりその源泉があるのではないかと考えます。
拙著『安岡正篤ノート』(致知出版社)でも述べた通り、元々日本にあった神道に外来の思想・宗教(儒教や仏教等)が入ってくると、日本人はそれらを受容しより高次元に発展させてき、そしてその最終型として武士道というものに繋げて行きました。
これ正に「和」の魂でありますが、日本人が「如何なるものを勇気として捉えてきたか」「勇気を持つ人間として称賛してきたか」ということでは日本人の場合、勇気とは「義」と非常に結び付いているような気がします。
『論語』の中に「義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり・・・義を見て当然行うべきことと知りながら、それを実行しないのは臆病者である」(為政第二の二十四)という孔子の言葉もありますが、日本人の祖先が儒学の中から学び取ってき、武士道の中でそれを世界比類なき一つの行動哲学として開花させたように思うのです。
私自身、中国古典とりわけ『論語』から学んできたのは、筋を通して義を貫くという生き方であって、如何なる事態に直面しようともそうした姿勢を決して崩さず、勇気を持って貫き通してきたつもりであります。
『孟子』の中に「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」というあの有名な孔子の言葉がありますが、多くの反対があろうとも世の毀誉褒貶を顧みず自分が正しいと信じた道を恐れなく突き進んで行く、という精神こそが日本人の勇気というものではないでしょうか。




 

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