北尾吉孝日記

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『論語』の「公冶長(こうやちょう)第五の二十一」に「甯武子(ねいぶし)、邦(くに)に道あれば則ち知、邦に道なければ則ち愚。其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり…甯武子(春秋時代、衛の大夫)と言う人は、国が太平の時はその聡明さと才智を発揮し、国が乱れている時は愚鈍のふりをする。彼の聡明さは他人も真似られるが、愚鈍さはとても真似られない」という孔子の言葉があります。
此の世の中、皆自分は普通もしくは賢いと思っていて自分が馬鹿であると自認している人は殆どおらず、孔子が言うように人間先ず以て馬鹿には簡単になれないものです。
取り分け義務教育を受けられる国、あるいは教育機関がある程度整備された国においては、教育を受け字が書けて物が普通に話せるという人は、例え学校の成績が悪かったとしても自分が馬鹿だとは余り思ってはいないでしょう。
況して学校の成績が良かった大多数の人は、自分は賢いと考えているようにも思われます。しかし、学校の成績を基に本当に人の愚かさや賢さを計ることが出来るでしょうか。
学校の成績というのは、一部の学力を計る上での目安にはなるかもしれませんが、その人間が有する全人的な知力を計る上では、恐らくほぼ役立たないのではと私は思っています。
例えば、「徳慧(とくけい、とくえ)」と言われる知があります。之は、仏教において一切の諸々の智慧の中で「最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、勝るものなし」と説明される、「般若」の智に通ずるものとされています。知行合一の中で様々修行した徳性の高い人間にあって初めて得られる知恵であり、こうした類は学力試験などでは全く計り得ず、故に全人的な評価というのはそう簡単に出来ません。
また、拙著『日本人の底力』(PHP研究所)でも指摘したことですが、そもそも人間の差などというものは「賢愚一如…賢い人も愚かな人も大差はなく皆同じようなもの」である、という仏教哲学的な考え方もあります。即ち、天という絶対的な存在から見れば相対的に人間同士が「片一方は賢く、片一方は愚か」としてみたところで殆ど意味を為さないということです。そうしますと愚かさと賢さの間には何の区別もないのでしょうか。
馬鹿になるというのが難いことである一方、賢くなるというのはそれ程ではないかもしれません。尤も賢くなったと自分で錯覚しているだけかもしれませんが、少なくとも知識面ではある意味簡単に増やすことが出来ます。例えは良くないかもしれませんが、「目糞鼻糞を笑う」ということでしょう。
尤も知識を増やしたことで馬鹿から解放されるわけでは決してありません。ただ、通俗的な意味で賢になれるということです。では、馬鹿になるべく如何なる修行が求められるのでしょうか。
私の場合一つ馬鹿になれる良い経験をしたと思っているのは、35年程前英語も碌々喋れない中で英国ケンブリッジ大学に留学をしたということです。
あの環境下、自らの考えを思うように表現できないもどかしさをじっと抱えながら、周囲に「あいつ、馬鹿でないの(笑)」と思われながら、生きて行くという経験を得ました。
之は、少なくとも自分の人生の中ではその時まで経験したことがない世界であり、それを経験できたことは「馬鹿になる第一歩だったかなぁ~」というふうにも思えます。
それからもう一つ、私は「今日の安岡正篤(168)」として「内外の困難な立場に立って、無事にこれを維持してゆこうというのには、よほど馬鹿になることが出来なければいけない。馬鹿殿様でなければ名君になれん。名君というのはこれをユーモラスに表現すれば、馬鹿殿様になることである」(14年7月17日)とツイートしました。
安岡先生は非常に逆説的に「馬鹿殿様でなければ名君になれん」とよく言われていたわけですが、では何ゆえ殿様が馬鹿にならないといけないかと考えてみるに、それは恐らく徳川幕府が隠密を日本中に遣わし不穏な動きがないかと監視している上に、家訓や仕来り或いは風習・習慣といった類で自身のあらゆる行動が規定されているからだと思います。
即ち、そういう中で自分の役割はどうあるべきかと考えて、結局お家安泰に生き残るには馬鹿になるしかないという境地に辿り着いたのではと思います。




 

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