北尾吉孝日記

『純粋な人とは』

2014年9月24日 11:20
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森信三先生は、『われわれの民族において、最も「純粋な人は?」と聞かれれば、明治維新以後では宮沢賢治を挙げ、維新前では、吉田松陰先生を考える』と言われます。
此の純粋な人がどういう人を指しているかと考えてみるに、純粋か否かの判断はその人の心の持ち方に関わっているのだと思います。
では如何なる心の持ち方をした時、我々は純な人だと判断するかと言えば、その一つにはやはり、私利私欲といったものを感じさせないということがありましょう。
邪心・私欲・打算の類なく、純粋に世のため人のためと考えているような言動だと感じられる場合、人に「あの人なかなか純な人だね」と思われるのではないでしょうか。
それからもう一つ、「世故(せこ)に長けた人」とか「世慣れした人」とか言われる人、即ち人に合わせてばかりで口先だけが上手い人間を、どちらかと言うと我々は純粋な人だとは余り思わないことでしょう。
「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁(じん)に近し」(子路第十三の二十七)と孔子も言うように、その木訥の中に穢(けが)れのない偽りなき気持ちから発する何かを見た時に、「あの人、心の綺麗な人なんだな」と思ったりもするわけです。
純粋な人ということでは、私として上記した受け止め方をしていますが、どのような場合に純と思うかは、また人により結構違っているかもしれません。
素朴な人に純粋な人は多いのかもしれませんが、此の純粋さと素朴さというのはニュアンス的に少し違ったものだと私は捉えています。
『論語』の「雍也(ようや)第六の十八」に、「質(しつ)、文(ぶん)に勝てば則(すなわ)ち野(や)。文、質に勝てば則ち史(し)。文質彬彬(ひんぴん)として然(しか)る後に君子なり」という孔子の言があります。
つまり孔子は、「質朴さが技巧に勝れば粗野になる。技巧が質朴さに勝れば融通の利かない小役人然となってしまう。修養で身につけた外面的美しさと内面の質朴さがほどよく調和しバランスがとれていて、はじめて君子といえる」と言うわけです。
乱暴なだけでは純粋というふうにも思いませんし、余りに飾り立てていても何か作っているだけという感がします。ひょっとしたら此の中庸の精神との関わりにおいて、純粋ということの一つの見方を見出せるのではないでしょうか。




 

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