北尾吉孝日記

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先週火曜日発売の『経済界』記事「ゼネラリストの時代からスペシャリストの時代へ」というのに、「これからは広く浅い知識を持つゼネラリストは要らないということだ。専門のスペシャリストにならないと、仕事がない、という時代になるのだ」云々と書かれています。
此のジェネラリストとスペシャリストということで言えば、人間というのは一芸に秀で一道を極めるべく大変な努力や人知れぬ苦労を重ねて行く中で、他の事柄に対してもそれなりの判断力が養われて行くのが普通だと思います。
従って何の道でもそうですが、ある意味その道では当然スペシャリストである一方、その人の言を聞いていると、他分野でも悉く参考になるというケースが多くあるものと思われ、私は基本ジェネラリスト・スペシャリストということで区別しない方が良いのではないかと考えます。
当ブログではこれまでもイチロー選手やジョン・ウー監督、あるいは郷ひろみさん等を一芸に秀でられた方として御紹介したことがありますが、例えば日本人として初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹氏にしても、評論や文章等を色々見ますと物理学者でありながら素晴らしいものを残されているわけで、一道において人一倍の苦労をし知恵を絞りきるということをした人は、やはり他の分野にあっても自然と磨かれて行くのだと思います。
昨年7月のブログ『不確実な世界と共に生きる生き方』でも述べたように、私は天才棋士・羽生善治さんの強さに感心しその著書すべてを読んでいますが、仮に羽生さんがスペシャリストであるとして将棋に関してのみ言及しているのかと言えば、彼は将棋を題材にしながら人生のあらゆる事柄を様々その著の中でも語っています。
あるいは、歴代1位の連勝記録を持つ双葉山(第三十五代横綱)は安岡正篤先生に傾倒していたそうですが、彼は当時前頭4枚目の安藝ノ海(第三十七代横綱)に敗れ記録が69連勝でストップした時、洋行中であった安岡先生に「われ未だ木鶏(もっけい)たりえず」と打電したと言われます。
相撲道という道を極めようとし相撲の世界で達人になった双葉山は、やはりそれだけ人間としても心技体を徹底的に磨くべく、様々な書を読み色々な形で修養していたということでしょう。ですから「未だ木鶏たりえず」などというような言葉が適宜適切に出てくるということだと思います。
ちなみに安岡先生は、「横綱になる前の大変人気が出てきた頃」の双葉山に『荘子』外篇達生や『列子』黄帝に出てくる「木鷄」の話をしたことがあったそうで、その話自体に御興味のある方は是非4年前のブログ『横綱・白鵬関について』を御覧頂ければと思います。
最後にもう一方、松下幸之助さんは「経営の神様」とも称される人でありますが、経営というのは技術もあれば管理もあり、その管理の中には経理もあれば財務もある、といった具合に様々な要素で構成されるものを纏めて経営と言います。
之に関し何を以てスペシャリストとし何を以てジェネラリストとするのかは非常に不明瞭な話であって、故にジェネラリストだとかスペシャリストだとかは余り拘らなくて良く私としては拘るべきでもないと考えます。
以上、人物を挙げながら具体的に述べてきましたが結局私が何を言いたいのかと言えば、結果として一つの道にのめり込んで行き一旦その世界でスペシャリストにでもなれば、今度はまた道が広がって行きますし周りがそれを広げずには置かないわけで、何の道であれ兎に角やらねばならないのは、真剣にその道を極めようと必死になって努力をして行く、その一点だけだと思います。




 

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