北尾吉孝日記

『叱られること』

2014年10月3日 16:50
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『叱られる力 聞く力2』(文藝春秋)の著者である阿川佐和子さんは、「もちろん、叱られるのは嫌ですよ。でも年を重ねると、叱ってくれる人がどんどんいなくなります。そうすると、人は自分に甘いから、緊張感を失っていくんですよね。いくつになっても叱ってくれる人、名前を聞くだけで背筋がピンと伸びる人がいてくれるのは、ある意味で、とてもありがたいと思いますよ」と言われています。
叱るということでは、当ブログでも嘗て『怒るべきタイミングで、怒るべき内容を、怒るべき方法で怒る』(13年10月17日)等々幾度か述べたことがありますが、逆に叱られるということに関しては私の場合、人に何かを咎められたといった経験が殆どありません。
但し、私のように何時何時も挑戦し続けて如何なる事態に直面しようとも主体性を持ち、自分の考える筋を通し義を貫くという姿勢を崩さないよう実践している人間は、常に世の毀誉褒貶と隣り合わせです。
時として褒められ、また時としてけちょんけちょんに貶される中で、人間というのは強くもなって行くわけですが、こうした世の毀誉褒貶で特に激しく非難されることは、ある意味で叱られるのと同じことですし、それが大勢という意味では、もっと強烈なことかもしれません。
例えば、長年に亘り大変な闘争を続けてきた出光興産創業者の出光佐三さんにおかれても、毀誉褒貶の多々あった人物で「国賊」とまで言われ、様々な形での苦労を重ねられた人であります。
しかしながら出光さんは、「いじめられるということがわれわれにとっては鍛錬であり、わたしは非常に感謝をしておる。日本の政府までが外国の石油カルテルといっしょになって、出光を鍛錬してくれる。このようにいじめられて、鍛錬されたところに、今日の出光の強さができ」たと述べられています。
出光さんは「艱難汝を玉にす」と己に言い聞かせ、非常に良い会社を創って行ったというわけで、叱られようが叱られまいが自分自身が正しいと信じたら毀誉褒貶を顧みず、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」(『孟子』)という孔子の言葉のように、勇気を持って兎に角やり通すということが大事なのだと思います。
何を恐れるわけでもなく、自分が信じた道を唯ひたすらに突き進んで行くだけです。そして世の毀誉褒貶が常に付き纏うその世界にあって、仮に駄目だったならばその責任を自らがとったら良いだけのことです。私にとっては、叱られるか否かは余り意味がありません。何故なら叱る人があったとしても、唯々やるべきを徹底的にやるだけの話ですから。




 

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