北尾吉孝日記

『思索と行動』

2014年12月4日 20:30
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「一体どうしたら思索と行動のバランスがとれるか」として森信三先生は次の3つ、「第一に、物事をするのをおっくうがらぬこと」「第二に、つねに物事の全体を見渡す智慧を──」「第三に、物事の本質的順序を誤らぬこと」を挙げられています。そして之に続けて、「これらの凡てを総括して行動的叡智という」と述べておられます。
国語辞書を見ますと、思索とは「論理的に筋道を立てて考えること」と書かれていますが、之は少し考えたという程度のものではありません。日々考えて考えて考え抜き、また考えながら学び続けて学び尽くす――そもそも思索といった時は、此の両方が混在するようにし此の両方をバランスさせて行かねばなりません。
これ正に『論語』の中にある孔子の言、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二の十五)、即ち「学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」ということで、やはり先ずは思索を深め知恵を磨いて行くことが大事なのだと思います。
そして次にやるべきは言うまでもなく、その思索を如何なる形でアクションに落として行くかということであり、之に際して非常に重要になるのがタイミングというものです。
最も効果が齎されるであろうタイミングを計って移されるアクションがある一方、そうしたタイミングは関係なしに人間かくあるべしとして取られるアクションというのも之またあります。
従って実際そういう事柄は分けて行かねばなりませんが、“Timing is everything.”と言われるように此のタイミングも非常に大事なものであって、いつ如何なる局面を選択しアクションに落として行くかということは一つ考えねばなりません。
何れにせよ冒頭に挙げた通り、森先生は「思索と行動のバランス」と表現されていますが、私として此の場合はバランスという言い方よりも、知行合一という言葉が適当ではないかと思います。
王陽明の『伝習録』の中に、「知は行の始めなり。行は知の成るなり」という言葉があります。知を得た人はどんどんとその知を行に移し、知と行とが一体になる知行合一的な動きに持って行かねば、ある意味得たその知は本物にはなり得ません。
世の中「言うだけ番長(言葉ばかりで結果が伴わない人)」に該当するような、何か言いっ放しの「評論家」や「コメンテーター」は沢山います。しかし此の類では決して、勇気ある行動力の伴った見識を有する即ち胆識を有する本物の人物にはなり得ないのです。




 

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