北尾吉孝日記

『志を引き継ぐ』

2014年12月15日 16:40
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吉田松陰の辞世として有名な名句、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」は1859年、松陰「処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書」の巻頭にあります。
その遺書『留魂録』の中で松陰は、「善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず…もっと善い方法を編み出し、この運動の緒を継承せねばならない」と、尊皇攘夷に関する言及を行っています。
松陰は当該運動の思想的リーダーでありましたが、此の政治思想自体は彼のオリジナルといったものではなく、朱子学の系統を引く水戸学をはじめ「先人たちの思想を引き継いだうえで、自分のものにし」その実現を追求したのです。
此の「前緒」を引き継ぐということでも何事においても、先ず最も大事になるのは「その人が如何なる人を師匠としているか」ということであり、之は森信三先生が言われる「人物を知る5つの標準」の第一に挙げられるものです。
他の4つは順に、「その人が如何なることをもって、自分の一生の目標としているか」「その人が今日まで如何なることをしてきたかという、今日までの経歴」「その人の愛読書が如何なるものか」「その人が如何なる友人をもっているか」ということで、上記含め此の5点全ては相互に連関しています。
例えば、如何なる師を有するかで愛読書や人生の目標は強く影響されるものですから、これらの中で他への影響力の点で何が重要かと言えば、第一の師匠であると言えましょう。
目の前で師と触れ合い師の呼吸を感ずる、というような生きた状況において師と仰ぐ人の謦咳に接することが、一番望ましいのは言うまでもありません。
しかし残念ながらそれが叶わぬ場合は、偉人が残した書物を読込み、その様々な教えを通じて、その人に私淑するというのでも構いません。
私の場合、勿論父親から影響を受けた部分も結構多いとは思いますが、『論語』を中心とする中国古典あるいは明治時代の二大巨人、安岡正篤・森信三といった方々が私の師ではないかと考えています。
自分の範とすべきものがあり、その人物は如何にしてそうなり得たか等々と学ぶことで初めて、自分もその人物に近付こうという思いに駆られることにもなるわけで、先人に様々な教えを乞うて血肉化して行くことが大事なのだと思います。
そうして、その人を全人格的に理解すべく学び続けて行く中で、その人に対する尊敬の念が益々助長されることもあるでしょうし、逆に擡げる程ではないと思ったりもすることもあるでしょう。
仮に前者であれば之は之で非常に良く、今度はその敬の気持ちの対極にある「」の気持ち、即ち「その人は大したことをやる人だと思い、逆に自分が出来ないことに恥を感じ、自分も何糞と思い発奮して頑張ろうという気になること」に繋がって行きます。
此の敬と恥が相俟って醸成されてくるものによってこそ、万物の霊長としての人類を以てあらゆる面での進歩を齎し、また自然とその人自身を段々と変えて行く原動力にもなるのです。
敬があるからある意味恥があると言え、それは人間誰しもが持っている一つの良心とも言えるものですが、そういう意味では心より師事するに至る人物を探してき、その全人格を知ろうと大いに努めたならば、そこに自分が良き方向に変わり得る可能性が生じるのだと思います。




 

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