北尾吉孝日記

『此の世と彼の世』

2015年1月27日 17:25
この記事をシェアする

『論語』の「先進第十一の十二」に、「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」という孔子の言葉が出てきます。死後の世界あるいは死に関して殆ど語っていない孔子が、ここでは珍しく生と死について自らの考えを述べています。孔子が言わんとしているのは、「死を意識するからこそ生を意識するのだ」ということでしょう。
あるいは、お釈迦様もマールンクヤという弟子から「霊魂というのは、死後どうなるのですか。不滅なのですか」と聞かれ、「苦悩からの解脱こそが最大の重要課題であるにもかかわらず、そのような戯論(けろん)をしていても仕方がない」と諭し、死後の世界があるともないとも明確にしていません。
このように仏教にしても儒教にしても、死後の世界についてはちゃんと語っていません。しかしながら森信三先生は、『「人は死んでからどうなるか」さらには「人は死んだら何処へ行くか」という問題ですが、これに対するわたくしの答えは、結局「われわれ人間は、死ねば生まれる以前の世界へ還ってゆく」と考えているのであります。(中略)それ故、わたくしにとっては、結局死は、生まれる以前のわが「魂の故郷」へ還りゆくこと、としか考えられないのであります』と明確に述べておられます。
此の死後の世界ということで先生はまた、『もし私があの世へ、唯一冊の本を持って行くとしたら、恐らくは「契縁録」を選ぶでしょう。何となれば、それは二度とないこの世において、私という一個の魂が、縁あって巡り合い知り合った人々の自伝の最小のミニ版だからです』とも言われています。
私として此の森先生の気持ちは分からなくもないですが、現実問題として私には余りそうした発想は出てきません。何故なら死を以て全て無という世界に入って行くと考えますから、此の世のものを彼の世に持って行こうとは恐らく思わないと思うのです。此の世に生を受けて生き、そして今一度土に還るというのが自然な姿であり、此の世のものに一切の未練・執着を持つべきではありません。そうした類を持ったらばまた、「恨めしや」と現世に出て来ないといけませんから(笑)。




 

(任意/公開)
(任意/非公開)



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.