北尾吉孝日記

『相対観から解脱せよ』

2015年1月30日 19:45
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森信三先生は嫉妬につき、「個としてのわれわれ人間が、自己の存立をおびやかされることへの一種の根源的危惧感にその根源的本質はあると考える」と言われます。之はある意味、人間に付き物の性癖かもしれません。此の嫉妬という字が何れも女偏で構成されるのは、「漢字そのものを作ってきたのが男だから」と言う人も勿論います。女性からは怒られそうですが嫉妬心を面に表わすのは、女性により多いような気が私はします。また病垂れに失うと書くのは、自分を失いなりふり構わず腹を立て回して行くという感じでしょうか(笑)。
反対にある心理学者によっては、「競争社会、日本の教育、自己中心的な考え方の3つが、男性が女性より嫉妬深くなってしまった」といった指摘もあります。男にも嫉妬心を掻き立てる人は多数います。私の経験上その嫉妬とは、権力を求める形でのケースが結構あるように思います。男も女も相対観を持つことで時に嫉妬に狂ってしまうのだと思われ、私として正にそれこそが嫉妬の本質だと考えます。
森先生はまた、あらゆる苦は相対観から出発するとも述べられます。「あの人はどの学校を卒業した」「私はこんな学校しか出ていない」「あの人は大卒だ」「私は中卒だ」「あの人は金持ち」「私は貧乏」---相対的な価値観で人に嫉妬したり自分を卑下したりし、時として人に対して憎しみを持ったりします。そうした相対観が如何に虚しいものかを知れば、人間の苦はなくなると言われるのです。
相対比較の中でしか自分の幸せを感ずることが出来ず、そしてその相対的な幸せを得る上での妨げとなる人物に対し恨み等の感情を抱く---こういう相対観の中で生きている人の心には、一生安らぎは訪れ得ません。『論語』の「述而第七の二十一」に、「我れ三人行えば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む」という孔子の言があります。之は、「三人で一緒に行動していれば、私は必ずそこに自分の師にできる人を見つけることができる。善いものを持っている人からはこれを積極的に学び、善くない人からは、それを見て我が身を振り返り、改めることができるからだ」といった意味です。
あるいは前記と似た孔子の言葉として『論語』の中に、「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自らを省みる」(里仁第四の十七)というのもあります。「善き者」からも「善からざる者」からも、「賢」からも「不賢」からも学ぶ姿勢が身に付いている人は、自分が成長することに懸命で相対評価に関わっている余裕などありません。そして結果そういう人が最終的には力をつけ、「あいつは人物だ」と周りからも評価をされる人間になるのです。昨年9月にも「相対観から解脱せよ」と書きましたが、それ以外の方法で嫉妬克服は叶わないのではと思います。大切なのは常に自分自身を謙虚に省み、人として自分自身を向上させることです。




 

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