北尾吉孝日記

『劣等感に使命はあるか』

2015年9月14日 14:55
この記事をシェアする

『三優ジャーナル』(No.102)の中の「コンサルティング現場からの報告」で西尾恭子という方が、『ユングは「その人の使命は劣等感の中にある」と言っていました(中略)。人間は、弱いからこそ生まれながらにして劣等感を持ちます(中略)。人間は、どんな人も完璧を目指しています』等と、私には殆ど理解出来ない話を長々と書かれていました。
例えば、自然の捉え方について日本あるいは東洋では、自然と人間を渾然一体化して考えるがような自然観があります。更にその自然観の前提には、「天人合一思想」というものがあります。
此の天人合一思想を簡単に説明しますと、「人間を自然に溶け込ませて観察し、思索する」「人間の中に自然を見、自然の中に人間を見る」「人と自然と渾然一体となって観察し認識する」ということになります。之つまり森羅万象、生きとし生けるもの全てに夫々の性質を与えている造化(万物の創造主であり神であり天)と人とは、合一であるという考え方です。
動植物は夫々、動物性・植物性という役割が天から与えられており、此の食物連鎖の中で正に弱肉強食の世界が出てくるわけです。そして動物の中でも、人間は此の生物界に生まれた人間としての役割、他の動物にはない人間性というものを受けています。之は人間には人間としての生き方があるということを意味しており、之を使命(ミッション)と言い換えても良いでしょう。
此の世を生成化育して行くために、我々銘々が天から与えられたミッションを持ちながら生きているのです。各人夫々のミッションは異なるものですから、個性なのです。更には我々人間の心の中にだけ、天意つまり天の意思が存在しているということです。我々は天が創りたもうたもので人間に限ってある意味、万物の霊長として非常に高度な意識を持っているからです。換言すれば、人間を通じて天が心を開いているとも言えましょう。
安岡正篤先生の御著書『東洋倫理概論』の中に、「造化は人を通じて心を発(ひら)いた。心は人の心であると同時に、造化の心であって、造化は心によって自ら『玄』より『明』に化し、人は造化の一物に過ぎずして、しかも個の心によってまたそのままに造化なのである。人がもの思うのは、すなわち造化がもの思うに他ならない」と書かれています。
此の造化(天)は人の心を通じて初めて、言葉として天意を表すことが出来る・表現することが出来るということです。天の意思として夫々にミッションがあるという意味で、人間も動物も植物も皆同じです。そう考えたらば当然、自然と人間とは一如となるのです。
「その人の使命は劣等感の中にある」――使命(ミッション)というのは、自分に与えられた天命と言い換えても良いものです。此のミッションに対しては基本、劣等感や優越感を持ったりするものではないでしょう。天から与えられたその使命を素直に感じ、己が使命だと考えている事柄全てをやり抜く以外ないのです。
「人間は、弱いからこそ生まれながらにして劣等感を持ちます」――人間の心を通じ天意が示される状況にあって、弱いからこそ劣等感を持つものでしょうか。そしてまた、人が何に対し劣等感を持つと言えるのでしょうか。此の世に生まれた生きている全ての物に天は人間に動植物夫々に役割を与えているわけで、その役割を少しでも立派に果たそうと愚直に生きて行くだけのことです。
「人間は、どんな人も完璧を目指しています」――本当にそうでしょうか。誰しも完璧を目指しているというのでなしに、謙虚に精一杯努力し続ける中で、自分の精神が磨かれ自分の生き方が練れて行く、人間として成長するというだけではないでしょうか。
使命とは「命を使う」ことだというのは正にその通りでありますが、では「何のために命を使うか」と言えば、それは自らに与えられた天命を明らかにし、その天命を果たすために命を使うのです。自分には天意あるいは天命が与えられているから生かされているのだという理解、逆に言えば、自らに与えられたその使命を何としても果たさねば生きている価値がないという位の強い意思を持って生きるのです。
『論語』の「尭曰第二十の五」に、「命を知らざれば以て君子たること無きなり」という孔子の言があります。己にどういう素質・能力があり、之を如何に開拓し自分をつくって行くかを学ぶのが、「命を知る」ということです。天が自分に与えた使命の何たるかを知らねば君子たり得ず、それを知るべく自分自身を究尽し、己の使命を知って自分の天賦の才を開発し、そして自らの運命を切り開くのです。




 

(任意/公開)
(任意/非公開)

  • 小
  • 中
  • 大



Copyright © SBI Holdings, inc. All rights reserved.