北尾吉孝日記

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『思考の整理学』(1983年)で有名なお茶の水女子大学名誉教授、外山滋比古さんは「読書が役立つのは30代まで」と断言されているようです。そして、「本好きな人は知識があることで人間的にどんどんダメになっていく。40歳を過ぎたら本に頼らず、自分で考える」とか、「知識が多い人ほど考えない。知識を自分のもののように使っていると、物マネ癖がついてしまいます」とかと、言われているようです。私は、年齢云々関係なしに、学びと思索というのは常に平衡裡に為されて行かねばならないと思っています。
国語辞書を見ますと、思索とは「論理的に筋道を立てて考えること」と簡単に書かれています。しかし、私は思索とは、少し考えたといった程度のものではなく、日々考えて考えて考え抜き、また考えながら学び続けて学び尽くす――思索といった時には此の両方が混在し、此の両方をバランスさせて行かなければならないと思います。
『論語』にある次の孔子の言葉にあるように、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二の十五)、即ち「学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」ということです。
更に私は『伝習録』にある王陽明の言、「知は行の始めなり。行は知の成るなり」でなければ、駄目だと思っています。つまり、知を得た人はどんどんとその知を行に移し、知と行とが一体になる知行合一的な動きに持って行かなければ、ある意味得たその知は本物には成り得ないということです。
世の中は常に変化し、変化と共に新たな思索が次々生まれ、人類社会は継続進化して行っています。勿論、時代変われども本質的に変わらぬ部分も沢山ありますが、20代・30代に詰め込み蓄えた知識だけでは如何ともし難くなるでしょう。学び薄くして唯我独尊の世界に入ったならば、之は大変な間違いを犯しかねません。「行年六十にして六十化す」(荘子)という位まで学び続け、思索を深め、知恵を磨いて行くことが大事だと思います。
学ぶとは、ある意味で多くの知見を集めること、英知を結集することであり、日々の社会生活の中でも為され得ることです。他方、そうした日常を離れ静かに先賢の書を読む中で、今一度心が洗われたりもするでしょう。あるいは良書を再読し、「この人が言いたかったのは、こうじゃなかったんだ。之は間違っていたなぁ」と昔の思いが理解できたりもするでしょう。
外山さんは94歳に成られる御年まで立派に生きられ大した人であろうと思いますが、安岡正篤先生にしろ森信三先生にしろ、生涯ずっと書を読み学び続けてきた人であります。いま偶々机上に、安岡正篤著『いかに生くべきか』(致知出版社)が置いてあります。此の本は何度読み返してみても、その時その時で付箋を貼ったり線を引いたりする箇所が必ずしも同じでなく、様々に違いのある示唆に富んだ一冊です。
例えば、書中に安岡先生は『菜根譚』の言葉「人を看るには只後半截を看よ」を引用しながら、「誠に人の晩年は一生の総決算期で、その人の真価の定まる時である」と書かれています。歳を取るに連れ、その人の地金が露わになってくるということで、我々は幾つになっても如何に生きるべきかを問い、学び続けねばならないと思います。




 

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